休日――
香穂子は自主練習のために学校へやって来た。
正門から入って少し進むと理事長の吉羅の姿が見えたので、香穂子が話しかけようとする前に彼から声をかけてきた。
「うん?そこにいるのは日野君かね?」
「はい、日野です」
「やはりそうか。今日は休日のはずだが……自主練習か」
「えっ、どうしてわかったんですか?」
驚く香穂子の顔を眺めつつ、吉羅が人の悪い笑みを浮かべる。
「驚くことはない。ヴァイオリンケースを見れば誰でもわかるよ」
香穂子はふと吉羅の髪を見上げると、ほんのりと濡れていることに気づいた。
「あの、理事長の髪が湿ってるみたいですけど、シャワーとか浴びられたんですか?」
「ああ、これは違う。ジムに併設されているプールで泳いできたんだ。仕事一辺倒だと運動不足に陥りがちでね、時折、ジムへ汗を流しに行っているんだよ。仕事をするにしても、まず体が第一だ。健康でなくては始まらないからね」
「はあ……いいですね。羨ましいです……」
プールといえば、香穂子は今年はまだ学校の体育の授業でしか泳いでいない。
きっと設備の整ったプールで泳げている吉羅のことが羨ましくなって、ついついそんな言葉が口を突いて出た。
ついでに溜息も。
「――ふむ。そんなに羨ましいのなら、君も泳ぎに行けばいい。ちょうど今日は休日だ、練習後に君を拘束するものはないだろう。近くには市営プールもあるし、流れるプールなどは家族連れにも人気だと聞いたんだが?」
「……あの、違うんです……」
「ん?違うと?君はどういう目的でプールに行きたいと言っているのかね?]
「市営プールじゃなくて、ジムのプールというものに興味があるんです」
「ジムのプールに?……さて、それはどういう意味かな?確かに、市営プールより設備が充実している場所は多いが……」
吉羅は意味深な笑いを湛えながら、面白そうに香穂子の反応を窺っている。
「ただ泳ぐだけなら、どこのプールでも同じことだ。値段もリーズナブルだしね」
話を切り上げようとしているらしい吉羅を、香穂子が慌てて制止した。
「あっ、ちょっと待ってください。話はまだ終わってません」
「まだ私に用が?一体何かな」
「あの、効率よく体力をつける泳ぎ方を教えてくださいませんか?」
「……なるほどね。そうきたか」
吉羅がおかしそうに笑いながら小さく呟いたのを、香穂子は聞き返した。
「――いや、こちらの話だ。気にしないでくれたまえ。確かに、効率よく体力をつけるための泳ぎ方はある。どうせ時間を費やすなら、有意義に使いたいという君の気持ちは理解できるよ。わかった、そういうことならば仕方がない。君を、私の行っているジムのプールへ連れて行ってあげよう」
「あ、ありがとうございます」
「ちょうど、ビジターチケットもまだ手元にあることだしね。将来有望なヴァイオリニストに投資をするのも教育者としての役割だ。加えて言えば次の休日、桐也を連れて行く約束をしている。一人連れて行くのも、二人連れて行くのも同じことだ」
……なんだ、二人っきりで行くんじゃないんだ……
香穂子は衛藤が一緒だと知って、少しばかり落胆する気持ちを抑えられなかった。
「君が望むのなら、桐也と一緒に連れて行くが……どうかな?」
「はい、お願いします」
それでも、これは千載一遇のチャンスには違いない。
香穂子は勢い込んで吉羅の問いかけに即答してしまった。
吉羅が愉快そうに笑っている。
「――わかった。では君も同行するといい」
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げる香穂子に吉羅が応じる。
「なに、礼には及ばないよ。先刻も言った通りに、若いヴァイオリニストの手助けも私の仕事のうちだからね。……ついでに、桐也の相手もしてくれると大変ありがたいのだが」
「はあ……」
香穂子は、そんなことを言ってくる吉羅に、もしかして二人きりになるチャンスなど微塵もないのだろうかと不安がもたげてきた。
衛藤が一緒というのも、香穂子とは一対一になる機会などないという牽制のようにも思えてくる。
でも、プールに一緒に行って泳ぎを教えてくれるという吉羅の提案に、期待が高まっていく。
しかも彼の通っているジムのプールなのだから、相当に凄い設備のハイクオリティな施設だろうと容易に予想がつく。
それよりも、吉羅の体を想像してしまうと……
どんな体格をしているんだろうか。
普段から鍛えているのだし、ジムで泳ぐのを日課にしているくらいなのだから、痩せぎすではなくて適度に筋肉もついていそうに思った。
普段は真夏でも学院にいる時には長袖の服を着ている彼の、その服の下……
ついついはしたない想像をしてしまうと頬が火照る。
それから、一番に大事なことがある。
何を着て行こうか、水着はどんなものにしようか?
――いっそのこと水着を新調しちゃおうか。
来週ならまだ時間の猶予はあるし、この夏の新作水着をチェックしに行きたい。
可愛い系のものにしようか、それともセクシー系の……?
でも、あんまり気負って体の線を剥き出しにするのも、露骨な女アピールになってしまって吉羅に退かれたり、苦笑されてしまいそうだ。
華奢な香穂子だが、体を露出する水着姿を吉羅に見せるのは……やっぱり、少し恥ずかしい。
制服の下の素肌を見せる、見られるというのが照れくさい。
とても意識してしまいそうで、今から水着姿になった吉羅と自分とを想像するだけで、鼓動が早まっていく。
あれこれ考えた挙句に、可愛くて適度にセクシー要素もあるセパレートの水着を選んで買ってきた。
悩みに悩んだ末にいろんな店を梯子して、試着を重ねて、納得できる雰囲気のものを選んだ。
こんな乙女のいじらしい気持ち、吉羅は理解してくれるだろうか……
――次の休日。
待ち合わせの駅前に佇む香穂子に、衛藤の元気な声が響いてきた。
「香穂子~!こっちこっち!」
吉羅の車から降りてきた衛藤が、車の方に香穂子を誘導した。
「今日はあんたもジムに行くんだって?暁彦さんから聞いてびっくりしたよ。暁彦さん、俺が頼んだ時も腰が重かったから」
「どうせ動く羽目になるのであれば、二人一度の方が楽なのでね。さて、顔ぶれも揃ったところだし、ジムに向かうとしよう」