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Since2013.10~「100万人の金色のコルダ」、漫画金色のコルダ、Vitaのゲームをベースに、吉羅暁彦理事長と日野香穂子の小説を連載しています。現在単発で吉羅理事長楽章ノベライズや、オクターヴの補完テキスト、パロディマンガ無料掲載中。一部パスワードあり
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――変わらないな、ここも。
いや、うんざりするほどあの頃と同じか――

一種独特の威容を誇る母校を改めて振り仰ぐと、さまざまな想いが去来する。
それは輝かしい想い出の煌き、苦悩に満ちた苦渋の日々をも孕んで、私を少々感傷的な気分へと導いてゆく……

――私は星奏学院の理事に就任する事を了承させられ、再び母校へと足を踏み入れた。
経営破綻の手前、あと一歩踏み出せば奈落の底へと突き落とされる直前になり、現校長である私の叔父から泣きつかれたのだ。
財務に疎いと公言して憚らなかった叔父の隙に、実質的に学院を私物化していたのに等しい理事会が、学院の経営資金を投資へと持ち出すという愚挙を犯したのだ。
――素人が、自分は楽をして儲けたいのだと不労収入を得たいという射幸心のみで株やらFXに手を出してはどうなるのか。
それは火を見るよりも明らかだ。

学院の破産を招く寸前になってから、MBAを取得済みの私の存在を思い起こした叔父が頭を下げてきたのだ。
冠婚葬祭の場でもなければろくに話もしない叔父が、突如として私にすり寄ってきたのは腹に一物あるのだと、とうに感付いていた。
最初はいきなり「理事長に就任して欲しい」などと、荒唐無稽な依頼をしてきた。
当然ながら私はそれを言下に一蹴したのだが、さすがに叔父も転んでもただでは起きなかった。
「理事長が無理なら、せめて理事に」
……常套手段だ。

初手には到底受け容れてはもらえないだろう本命の依頼をし、蹴られれば少しハードルを下げて、取り付きやすい案件を再度提示する。
理事長は幾らなんでも困難が伴うだろう、それが無理なのは重々承知している。
ならばただの理事でいい、他にも理事がいるのだから。
その中の一人として、経済のエキスパートとしてのお前の立場から、現況の経営状態についての助言が欲しい――

我が叔父ながら、なかなかにしたたかな交渉術を遣う。
断られるのを承知の上で大本命の依頼を済ませ、次に心理的な負担を下げた案を持ち出す。
ここで私が受諾したと言えば、実質的にいずれ理事長へと格上げさせられるのは目に見えている。

……熟考の末に了承の意を伝えたのは、認めたくはないのだが叔父の情に絆された面が大きい。
私が姉を喪って以来、肉親の情愛に脆くなっていると自覚している。
単純に弱った年長者を労わるだけの問題では済まされない。

これまでに、私がどれだけ音楽に関わる状況を忌避してきたものか。

これを承知してしまえば、人生が大きく変えられてしまう。
もう二度とあの場所には戻るまい、そう決意して学院を去ってから、幾星霜の年月を経ただろうか。

それが、結局は此処に到るまでの単なる回り道に過ぎなかったのだと思うと、運命の悪戯とも言うべき事態に直面し、暗澹たる気持ちになった――

理事の一人としてまず会計監査を行うと、後悔の二文字だけでは済まされない厄介事に巻き込まれたのだと知った。
ほぼ犯罪に等しい業務上横領と、背信との罪状の証拠を握ってしまった。
巨額の金を融資で溶かし、姿をくらませようとした理事らを追って捕捉する事態から始めねばならなかった。
彼らを犯罪行為で告発・起訴するのは容易い。
だが、それには膨大な時間と手間隙を必要とする。
乱脈生活の末に自己破産に到った理事に賠償請求をしたところで、億単位の金はもう二度と戻りはすまい。
私は法律家として学院の暗部を粛清しに来たのではないのだ。
忸怩たる思いを抱えながらも、これまでに培ってきたノウハウと人脈とを活かして、母校の建て直しを図らざるを得なかった――

理事となってからは、毎日のように学院へと足を運び続けた。
あらん限りの手を尽くして財政再建の方法を模索し、帳簿のあらかたの不正や粉飾を押さえた頃になると、既に季節は移り変わっていた。

ふと空を見上げると、高らかに舞い飛ぶ小鳥の姿と鳴き交わす声が降り注いできた。

――ああ、もうあんなに空が高い。
多忙を窮め、甚大なストレスに晒されていた中で、空を見上げるといった些細な事さえ忘れかけていた。
ヒヨドリの声……
学院の傍の墓地に葬られている私の姉、美夜が好きだと言っていた鳴き声だ。

休日の学院の中には、人影さえもない。
いつもは私を悩み苦しませる、数々の音楽の欠片さえない。
私の足は校舎内に入り、通常ならば閉じられている屋上を目指して歩を進めていた。

――この壁も、あの掲げられている絵も、あの頃と同じだ。
高い天井も、重厚な造りの壁面も、意匠を凝らした窓辺も――

脳裏を行き過ぎてゆく数々の想い出。
無数の生徒の織り成すさざめき、笑い声、音楽……
影のように多くの、顔のわからない生徒の姿が浮かんでは泡のように消えてゆく。

胸を鋭く刺し貫くのは、輝かしい希望に満ちた日々の、金色の残像。
グラウンドで眺めた夕暮れの情景、教室の窓から覗いた友達の顔、手に持ち音を奏でたヴァイオリンの感触。

一気にそれらが交錯して、目の奥が熱く痛くなる。

――此処は、巨大な墓標だ。
私の心の一部をもぎ取り、奪い去っていったものどもが眠るモニュメントだ。
息苦しいほど懐かしく愛しい日々だからこそ、今もなお心を苛み続ける想いがある。


何故あの時私は姉の命を取りとめることができなかったのか。
もっともっと話したかった、もっと気にかけていればよかった……
苦い後悔の念が私の胸を黒く塗り潰してゆく。
できるのならば時間を取り戻したい。
謝りたい、赦して欲しい。
ただ一日だけでいい、あの人に会いたいと、血を吐くような想いで何度願ったか――

屋上の扉は、重い軋み音を長く引いて閉まった。
基本的に此処への生徒の立ち入りは許されてはおらず、それは今も変わらない。
……この場所でも、数限りない音を奏でた。

あの人の笑う顔、憂えた表情、ふざけていた私を見守っていた慈母のような眼差しが蘇ってくる――鮮やかに。

歩いている足許近くに目をやると、色褪せた何かの痕跡が見て取れた。
――ああ、あの時の落書きだ。
姉と金澤さんと共に過ごしたあの一年間。
コンクールを控えた金澤さんに導かれて此処へ来て、彼は私に色鮮やかなペンを差し出した。
決意表明を残しておくんだと、彼は悪戯っぽい表情で私に告げた。
彼はいかにも彼らしい言葉を、私は彼に付き合わされたという思いもあったのか渋々と、でも密かに胸を弾ませていたのを覚えている。

姉は、そんな私たちの様子を見ても咎め立てることはせずに、ただあの優美な表情で笑顔を浮かべていた……

記憶は、いつまでも薄れてなどいかない。
今では永久に喪われてしまったからこそ、却ってより鮮やかに、より美しく蘇ってくる……とても鮮明に。
くっきりとした輪郭線を描いて。
この手に掴み取れるかと思えるほどに――

暮れてゆく西日が私の目を射し、瞼の端が痛んだ。
瞳を閉じると浮かんでくる、セピア色の残像。
消えない想い出、消せない胸の痛みを残して永遠に過ぎ去っていった日々。

――貴女は今、もう苦しんではいませんか。

安らかな心地でいてくれていますか。

楽しかった時を思い出して慟哭する私を、貴女は赦してはくれますか?

どうかこのひと時だけは、貴女を想うのを許してください……

――空気を切り裂くように鋭い、ヒヨドリの声。
気がつけば辺りは夕闇の色に染まっている。
鳥たちが塒に帰る頃合で、一斉に群れが羽ばたいて空高く舞ってゆく――

私も帰らなければ。
私は私の場所へ――何処へ?
心はまだ迷い子のように彷徨い、惑っている。

それでも、貴女も此処を消してしまいたくはないはずだ。
だから私のとった行動は正しいのだと、そう信じても構いませんか?
貴女の愛した場所を護り続けるのが私の使命ならば、私はそれに従おう。

消えない想いを抱いて、運命の不思議に導かれて、私は今此処に居る。

それが私に課せられた試練ならば、甘んじて受けよう――

ようやくそう思えるようになったのは、やはり貴女のおかげなのだ。

貴女が生きろと命じるのならば、私は精一杯に命を燃やして生きよう――


(了)

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僕は、本気で告げてくれているらしい金澤先輩の真剣な表情を見返した。
教会の周囲は静まり返っていて、しんとした空気の中を小雨が降りしきっている。

「……先輩の申し出は、ありがたいんですが。僕は受験が終わったら一人暮らしをする予定です。……例え受からなくても、そうするつもりでいるんです」
僕は、ゆっくりと刻み込むように……自分に言い聞かせるようにして口を開いた。


今、金澤先輩に甘えてしまっては、僕は一人で立てない気がする。
ずっと一緒にいてもらっては、彼がいない時が寂しくてたまらなくなるかもしれない。
それなら、お互いに一人でいて、たまに行き来や交流をすればいいんじゃないかと思っていた。
もしも僕がどうしようもない孤独感に襲われてしまったら、その時に……
できれば、彼に助けてもらえたなら……



一人暮らしをした経験もないのに、いくら親しくしている金澤先輩とでもいきなり同居をして、うまくいくとは限らない。
僕はこの関係が壊れてしまうのがとても怖い。
友達として時々会って楽しく過ごしていたけれど、ずっと一緒に過ごすことによって、お互いに嫌な面を見たり不愉快な目に遭ってしまうのが怖いのだ。


……まるで、恋人に嫌われたくないと思っている女の子みたいだ。
だが、僕の今の正直な気持ちだ。



勝手な言い分だろうか。
躊躇を交えながら、でも僕は率直に思うところを彼に語った。
金澤先輩は、うなずきながら黙って僕の意見を聞いていた。


「わかったよ。ま、おまえも当分忙しくなるし……気分変えたけりゃいつでも来てくれよ。なんか困ったことがありゃ、俺に言ってくれればいい。俺は、聞くことくらいしかできないけどな」
「いえ、ただ金澤先輩に聞いてもらえるだけで、それだけでいいんです。……先輩は、僕の言葉を否定しなかった。僕の周りの連中ときたら僕への全否定から始まって、説教に次ぐ説教ですよ。……もう、たまりませんでしたからね……」

先輩は、僕を見て穏やかな微笑を浮かべていた。
「俺、今夜は飲みたい気分なんだよ。おまえも付き合えよ、なっ」
話しながら先輩は大通りへと出て、タクシーを拾った。
僕も一緒に乗り込み、話の流れで彼の家に向かうことになった。




それから二人で痛飲し――最後には金澤先輩は酔い潰れてしまった。
先輩の家で飲んだりするのを繰り返しているうちに、どうやら僕は相当に酒に強いらしいというのがわかってきた。
金澤先輩なら泥酔して潰れてしまうほどの酒量でも、僕はそこまでには至らない。
快い酩酊感覚は味わえるし、気分はよくなって気が大きくなる。
一人で酒の味すらよくわからずに飲んでいた時よりも、ずっと量が進んでしまうのは何故なのだろうかと疑問に思った。



金澤先輩と、くだらない話をしたり真剣に話し込んでいるうちに、どうも僕は酒を煽ってしまう癖があるようだ。
このままではアル中になると呆れたように先輩から言われてしまうが、今は以前ほどアルコールに依存はしていないつもり……だ。
度を超さないようにと自重する意識はあるし、受験勉強の憂さ晴らしに週末にこうして飲む程度だ。


「あんま酒飲んでるともう成長しねえぞ」
「望むところですよ。背も、183あれば充分でしょう」
「いつの間にか俺に追いつきやがったな、おまえ。これからも伸びて190とか2メートルになったらなったで、そりゃ見ものだな」
「そこまでいくと、服とか靴探しとかが大変そうですからね」
「オーダーすりゃいいじゃんか。なっ、お坊ちゃん」

「それはそうですが……あ、オーダーのことですよ」


自分が先輩に揶揄されるお坊ちゃんだというのは、なんとなく自覚はしている。
金銭面や生活面で困った覚えはないし、おそらく僕はとても恵まれた環境にいるのだろう。

大体が、クラシックで身を立てていこうだなんて人間は、ある程度の生活のゆとりがなければ、とてもやっていけはしない。
実家にある程度の資産や財産があり、金に困らない人間が余技として続けていくものだと、僕は思う。
その日の生活にも困るような、明日の食の心配が尽きないような環境で、やり抜けるものではない。

死ぬほど頑張ったからといって報われるような世界でもないし、労苦や努力に対する正当な評価が得られると思うのは大間違いだ。
そんな険しい道に敢えて進む金澤先輩を、微力ながら精一杯応援したいという気持ちはある。
僕の分も頑張って欲しい……などと言うつもりはないが。


――姉が……
もしも姉が生きていて、僕がヴァイオリンを辞めたいと言ったとしたら彼女はどう答えてくれただろうか。
最初はやはり、僕の才能やこれまでの実績を惜しんで引き止めるだろう。
だが、僕の意思が強固なのを感じれば、僕の性格を知っている姉ならば最終的には、僕自身の選択を応援してくれただろうと思う。
……いや、そうだと信じたいのだ。

僕が姉とともに過ごした時を振り返るには、まだまだ多くの時間を必要とするだろう。
苦悩や辛苦から逃れて生きていくのなら、これしかない。
どうか悲しまないで欲しい、わかって欲しい。
僕はあなたを喪った悲しみと正面から対峙し続けていては、いつか正気を失ってしまうだろう。
半身を引きちぎられてしまったような痛みが僕を壊してしまう。
街中でふと姉の奏でていた曲を耳にすると、心が切り裂かれるような苦痛に襲われる。
それほどまでに、僕の心には深い亀裂が生じてしまった……

運命の糸というものが、どこかにあるのだろうか。
それが自分にはどうしようもないものだなどとは、僕は思わない。
僕は今初めて自分の意思で、歩むべき道を選ぼうとしている。

叶うのならば見守っていて欲しい……
あの世と称される場所があるのならば。
できるのなら、天国と呼ばれる場所から。

姉の微笑が目の前を横切り、淡く去って行った気がした。

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――その日は朝から雨が降っていた。
晩秋の冷たい空気を更に凍てつかせるような……土砂降りではないが気にならない程度の霧雨という訳でもない。
涙雨、ってやつか……
俺は胸の中で独りごちた。

黒い傘を差した喪服の集団は、星奏学院にほど近い教会の墓地で、美夜の墓を取り囲むようにして佇んでいた。
所謂三十日祭というやつで、仏教式で例えるなら四十九日に該当する追悼の儀式らしい。
カトリックだとかプロテスタントの区別さえ怪しい俺だが、美夜が死んでしまった悲しみは当然あるが、今は遺された吉羅の心理状態への懸念が大きくなっていた。

白い百合の花が美夜の墓に手向けられていくのを見て、墓標にかがみ込んで合掌した。

喪服に身を包んだ吉羅の顔はやや蒼ざめたように見えたが、少ししてそれは漆黒のスーツがあいつの顔に陰翳を作り出しているんだとわかった。
最近までろくに飲食物を摂っていなかったはずだが、少しは食うことを覚えたらしい。
それはこの前、あいつがひどく酔っ払った夜にわかっていた。
俺にできるのは、ただあいつの言葉を聞き、飲み込むことだけだった。

いつでも家を出て行けるように……と半分冗談だろうが、残り半分はおそらく本気で、あいつは荷物の整理をしていたんだろう。
CDやDVDだらけだった部屋の中でも、クラシックの音源や映像は殆ど片付けられちまっていたし、楽器はおろか楽譜や教本の類ですらも、一切があいつの部屋から消えてしまった。
それらを収納していた棚やラックも無くなっていて、代わりにダンボールが積まれ、やけに広く感じた室内が寒々しくも思えた。

残ったのはモノクロームの色合いで統一された机や椅子、本棚とベッドくらいなものだ。

以前壁に貼りだされていた指揮者や奏者のポスターも剥がされちまっていて、アイボリーホワイトに見えた壁には、ポスターの痕が四角く切り取られたように、ぽっかりと青白さを浮かび上がらせていた。

神父が説話をしながら遺族と茶話会を行うという式次に従い、教会の一室に誘導されていく。
吉羅は喪主の父親の傍に居て、美夜の最も近い肉親なので上座に位置していて、親戚に取り巻かれた形になっていた。
法事などの精進落としの形式よりは簡略な軽食が出て、口々にあれこれと話をしている吉羅の親族を見るともなしに俺は眺めていた。
俺はもう二十歳なので飲酒を勧められたが、さすがにこんな席で飲むような気分でもない。


吉羅の方は、ソフトドリンクを無表情に流し込んでいる。
あいつこそこんな場ではなく気楽な場所で飲みたいだろうにと、俺は吉羅に同情した。


「――時に、暁彦。音楽科から普通科への転科だが、受理されたよ」
吉羅の叔父の校長からそんな言葉が聞かされて、俺ははっとして顔を上げた。
「そうですか。ありがとうございます」
なんの感情も覗かせないような、一本調子の素っ気ない文言が吉羅の口から出た。
台本の科白を棒読みしているように思える。

「……念のために訊いておくが。気持ちは変わらないんだな?」
校長が吉羅に阿るようなねっとりした口調で、あいつの顔を覗き込むようにして尋ねた。

吉羅の眉根が寄せられて、途端に険しい顔つきになった。
「何度訊かれても答えは同じです。――気分が悪いので、僕はこれで失礼します」
眉間に深い縦皺を刻んだまま、吉羅は茶話会の会場から飛び出した。
誰も咎め立てもしないが、呼び止めもしない。
あいつが周囲からも腫れものを扱うようにされているのが一目でわかった。

――まるで、大怪我をした肉食獣がその場にいるようだった。
誰も近づくな、話しかけるなと体中で訴えかけている。
他人の好奇の視線や接触を一切遮断したがる、取り付く島のない頑なな態度だ。
全身に漲らせているそれは、およそ余人を寄せ付けない電流のような障壁に思えた。

群れからはぐれ、傷を負い、傷口から血を流している若い一頭の狼――
俺の眼には、あいつはそう見えた。
深手を負った傷口は塞がらず、ちょっとしたきっかけでそこから血が滴り落ちていくような事態を招くんだろう。
校長に吉羅を傷つける意図はないにせよ、今のあいつは神経線維が剥き出しになっているような危うさが見て取れた。

「よう、吉羅。中抜けか?」
「……金澤先輩……」
俺が傘を差しかけると、さっきまで刺々しかった吉羅の表情が一気に緩んだ。
外は霧雨が降り続けていて、吐く息が白くなるほど冷えていた。
「いいのか?親族ご一同を放っといてよ」
「いいんですよ。……なんの集まりだったのかの趣旨も忘れて、まるで何かの宴会みたいに場が崩れてくる。神式だろうが仏教の法事だろうが、僕は、こういうのは嫌いです」

きっぱりと――だが、吐き捨てるように吉羅は言い切った。
それは少年ならではの潔癖さを以って、大人どもの小狡さなどを寄せ付けないほどの清冽な気配を感じさせた。

「うるせえオヤジどもの、酒臭いお喋りや、煙草の煙でこっちがどうにかなっちまうわなあ。俺も好きじゃねえよ、こんなのは」
俺の言葉に、吉羅は黙って頷いていた。
「あー、ヤニくせえ。なんつーの、独特の匂いがつくよな、タバコってよ」
俺は自分の喪服の袖口に染み付いた匂いに顔をしかめた。
「……ですね。僕も、興味本位で試してみたんですが、体質に合わないようで全然受け付けませんでしたよ」


俺は意外な言葉を耳にした驚きで、絶句して吉羅の整った顔を見た。
このお坊ちゃん顔で、タバコねえ……
そりゃ似合わないことこの上ない。

「――おまえが?タバコ?」
ついつい失笑を抑えきれずに、曖昧な半笑いの表情を作ってしまった。
「おかしいですか?」
「そりゃ……まあなあ」
きょとんとして俺を見返す吉羅の顔に、ますます笑えてしまう。
「そんなに笑うことないでしょう……」
言いながら、吉羅はどこか憮然として納得しきれていないような表情をしていた。

「無理すんなって、こないだも言ったろ?」
俺は吉羅の肩を叩いた。
「別に無理したわけじゃなく、ただの好奇心ですよ。もっとも、数本吸ってみて何も面白くもなかったんで、やめました」
「おいおい。面白くなっちまうタバコだったら、やばいだろうが」

言いながら、俺ははたと思い出した。
こないだ、こいつは駅前でおかしなチンピラみたいなのに絡まれてたんだっけ。
薬物の密売人に取引相手だと間違われたって言ってたよな。

……もしかして……
それは、間違いなどではなくて……


いやな想像をしかけてしまうと、背筋に冷たい汗が伝い落ちていった。
血の気が足元から音を立てて引いていくような不快感がある。
「……なあ、吉羅。おまえ、あそこ出てくんなら、マジで俺の下宿に来ねえ?」
咄嗟に閃いたまま口に出した俺の言葉に吉羅は眼を見開き、黙って俺の顔をじっと見ていた。

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その後、一週間して僕は金澤先輩を再び僕の家へ招き入れた。
それまでの間に、音楽関係の書籍やら楽譜、教本の類をまとめて片付けてしまった。
勿論ヴァイオリンも、その関連の用具の数々も処分するつもりでいた。
引越しでもするのかと思われるほどに、僕の部屋の荷物はかなり減っていた。
いつでも家を出て行けるように準備している、というのもまずある。
決して狭くはない部屋だが、机と本棚、ベッドくらいしか家財道具がなくなった室内はだいぶガランとしてしまった。
なんだか家具店の売り場のような、味も素っ気もない無味乾燥ぶりだ。



部屋の隅に積み上げられた段ボールの箱を見て、やはり金澤先輩も僕がここを出て行くと思ったようだ。
「引越しでもすんのか?」
「いえ。ただ、不要な荷物をまとめて収納しただけです。……気持ち的にはかなりすっきりしましたね」
事実、片付けの作業をして体を動かしている間に、僅かずつだが気持ちが上向いているのを自覚していた。
少し前までの、姉を亡くした悲嘆に暮れるだけだった日々からは考えられないような変化を、僕は遂げようとしていた。

姉の部屋こそ元のままで、未だにそこには手をつけられずにいる。
今度僕がそこに入るのは、ここを立ち去る時だと心に決めている。
迸り出る感情が涙とともに涸れてしまったようで、僕は金澤先輩とさんざん飲んだあの日以来、泣くことはなかった。




僕は金澤先輩に、少し前から考えていた計画を告げることにした。
「――音楽科から、普通科への転科をしようと思います」
それまではただ僕の話に耳を傾けていてくれた彼が、グラスの中身を干そうとする動作を止めた。

「……進学の方はどうするんだ?おまえ、星奏学院大の音楽学部へ推薦されるって、ほぼ決まった形になってたよな?」
「外部受験をします。……MBAを取得したいと思っているので、経済学部があって国内でのMBA取得に力を入れている……都内のK大を狙います」
このまま、あの学校で……音楽にまみれた生活を続けていくことはしたくない。
できるのなら一刻も早く訣別してしまいたい。
でないと、いつか本当に僕は気が狂ってしまいそうに思えるからだ。


「……そうか。一応必要な単位数は取れてるよな。けど、ここ最近おまえが学校に通わなくなってから、まあ……どれくらい経ったっけ?ひと月くらいか?」
一ヶ月余りの間、僕は出席せずにいた。
欠席日数が多すぎるので、推薦基準になど到底満たないだろう。
だから必然的に一般受験をしなくてはならない。
星奏学院大に通うという選択肢もあると言われるだろうし、現に教師たちは口々にそれを勧めてきたものだ。


冗談じゃない。
姉の過ごしていたあの空間に身を置けば、僕は自責の念と悔悟にかられてどうにもならなくなるだろう――
姉が明るく希望に満ちた日々を送っていた学び舎で、それが断絶されたのを追体験しろと言うのか?
僕の神経は、テレビモニターがぷっつりと切れるがごとく、ブラックアウトしてしまうことだろう。


僕は正直にそう金澤先輩に告げた。
「……そうか。後は、親御さんがなんて言うかだよな」
「もう十八です。奨学金を借り入れてでも、アルバイトを幾つ掛け持ちしたって大学くらい、自力で通います」
「まあ、そんな肩に力入れ過ぎんなよな」
「幸い、僕自身の貯金もあるにはあるし……学資として積み立てていた資金くらい都合がつきますから」


とにかく僕は、音楽に囲まれたあの環境から逃げ出したかった。
このまま僕が生きていかねばならないのなら、境遇も何もかもを改めていくしかない。
音楽と無縁の場所に移ってしまいたい、それもできるだけ早いうちに。
それを逃避と呼ぶならばそう言われても構わない、好きにすればいい。
他人の思惑などどうだろうが知ったことか。


以前から経済学には興味もあったし得意な分野だ。
どうせなら、今のうちにその資格の最高峰であるMBAを目指したい。
得意な語学も活かせるし、いずれ留学をしてもいいかもしれない。


目標が定まれば、あとは半ば強制的にでも自分をそこへ追い立てるだけだ。
三学期になれば、大学受験の為の自由登校期間が始まる。
今から転科し普通科に在籍するのも形だけになるだろうし、学校へと足を運ぶ機会は自然と激減していくだろう。


「……そっか。まあ、後は親御さんが反対するようなら、俺も加勢してやってもいいぜ。もし追い出されたら、俺の下宿にでも来るか?」
「そうですね……先輩さえよければ」
「俺はおまえと違って、整理整頓苦手だからさ。それはおまえに頼むかもしれねーな。そこんとこだけ気に留めといてくれよ、なっ」
「ですね。じゃあ僕、料理とかしないんでお任せしますよ」
「おっと、そうきたか。お坊ちゃまのお口に合うものができるかは保障できませんよっと」

金澤先輩の笑顔につられて、僕も笑う。



両親と話をしてみたが、あっさりと転科・外部受験についての許可が出た。
家を出て行く可能性についても、姉と過ごしたこの場が辛いのなら、それもいいと言われた。
予備校の集中講義に通うのにも了承が得られたので、それを親を交えて僕のクラス担任や学年主任と話し合った。
二学期が終了しようとしているこの時期に、転科をするなんてと訝しがられるかもしれないが、構うものか。



これで、学校の授業でさえも音楽と関わらずに済む。
それは僕を今まで縛り付けてきたしがらみからの解放を意味していた。
虚しさなど感じない。
胸の裡に空いた穴も、いずれは塞がる時が来るだろう。
長年ヴァイオリンを当ててきたせいで、固くなってしまった鎖骨の辺りの皮膚も元通りになるのだろう――
いつかその時が来たら、僕のこの苦しみでさえも、あの頃はあんな苦悩があったのだと思い返すだろうか。


時折胸は痛むだろう。
姉がいなくなったという事実は変わらず、喪失感は消えることはない。
この胸にわだかまる悲嘆も、姉を襲った過酷な運命への怨嗟も、少しでも薄まる時は訪れるのだろうか……

拍手[21回]

「――あれ?おまえ、吉羅?吉羅じゃねーかよ」
聞き覚えのある張りのあるテノールの声が僕を呼び止め、その声の主を振り返った。
「……金澤先輩?」
彼が少し驚いた風で眼を見開き、僕を見ていた。

「何やってんだよ。あいつ知り合いか?」
僕を追って来ようとしたスカジャン男が、背が高く体格もいい金澤先輩と僕が話しているのを見て、慌てたように逃げ去って行ってしまった。
「……なんなんだ、ありゃ?」
金澤先輩は怪訝そうにその男の姿を目で追っていたが、やがて興味を失ったのか僕の方へと向き直った。


「……あれは、薬物の売人でした。僕が取引相手だと勘違いして、話しかけてきたんですよ。人違いだって言ってたのに、しつこくて」
僕がそう告げても、彼は少しばかり目を見張っていただけだった。
僕が薬をやっているなどとは誤解されたくなかったが、そう言う前に、彼は僕を疑っている様子はなさそうに思えた。
「……はあ、そうだったのかよ。ったく、タチ悪いのがそこらにいるからなあ」
金澤先輩はさして関心も深くなさそうにそう言うと、髪に手を突っ込んでいた。


「警察沙汰になるのは、ちょっと勘弁して欲しかったんです。今は体がしんどいんで。金澤先輩が通りがかってくれて、助かりました……」
「まー、そうだろうな。ダイエットでもしてんのかよ?学校の方で会わなくなったのは、どしたんよ?具合でも悪いのか?」
「……まあ、そんなようなものです」
ここ最近、ろくに食事を摂りもしていないし、自分で鏡を見る都度痩せたなと思う。
病院に行けとまでは言われないが、そろそろ危険水域かと感じていた。


「ちょうどいいや。荷物持ってやるよ。こっからおまえんちって、それなりに距離あるよな?」
僕が抱えていた本の袋を僕から取り上げると、軽々と金澤先輩はそれを持った。
「いいですよ、それくらい。自分で持ちますって」
「いや、おまえにゃまだ他に持って欲しいもんがあんだよ。ってことでついて来いや、なっ」
先輩は大股でスタスタと歩いて行ってしまい、早足で向かったのは大きな酒屋だった。


僕が持つカゴの中に、次々と酒やらつまみやらを入れていき、あっと言う間にカゴの中は品物で埋め尽くされた。
それを金澤先輩が持ち上げてレジへと向かう。
「どうせおまえんとこ、誰もいねえんだろ?奢ってやっから飲もうぜ」
「いや、でも――」
それは悪いと言いかける僕を制して、彼はさっさと手早く買い物を済ませてしまった。
「誰も説教なんかしねえから。うぜえ先公とか来たんだろ、どうせ?一人で飲むのもなんだから、つきあえよ」



説教はしないと言う彼の言葉に甘えて、僕は荷物の半分程度を持ちながら、自宅へと金澤先輩を招く成り行きになってしまった。
不思議なほどあっさりと、やや強引とも思える彼の行動を受け容れてしまったのは、さすがに少しだけ人恋しくなったせいかもしれない。
この年上の友人は説教など大嫌いで、いつだって飄々としていて、堅苦しい行儀作法を嫌う自由闊達な人だ。
だから、おかしな先輩風を吹かすことなどもない。
結構な荷物になってしまったので歩くのを嫌い、タクシーで僕の家へと行く運びになった。


久しぶりに他人と会話を交わしたと思ったら、それが薬物販売の犯罪者とは……
僕は久々に、自嘲ではあるがおかしくなって笑ってしまった。
急に笑い出した僕の声に驚いたのか、金澤先輩が問うてきた。
「どしたんだよ、おまえ?」
「――いや。久々なんですよ、街中に出たのも、お手伝いさんや身内以外と話したのは。その第一声が、薬の売人とかって。なんだかなと……」


あのままあの男と一緒にいたなら、どうなっていただろう。
一本と言うのはおそらく一万円のことだろう、冷静になるとそんな要らない知識が頭の中から取り出されてきた。
殴る蹴るでもされて金を奪われでもしていたか、あるいは……
薬物を押し付けられたかもしれないとぼんやりと考えた。
そこへ偶然だが金澤先輩が通りかかってくれたのは、馬鹿な真似はやめろという警告の意味合いなのかもしれない。


大きな恐怖から解放された瞬間に、さまざまな想いが体の奥底からわっと湧き出てきて、訳がわからなくなりかけていた。
こんな時だからこそ一人でいたくはない――
酩酊に身を任せて、憂さ晴らしをしたいと単純にそう思っていた。


「――無理すんなよな、おまえさ」
ぼそりと、金澤先輩はそれだけ呟いた。
何故だか急に目の奥が痛んで、ここがタクシーの狭い車内でさえなければ、きっと子供のように嗚咽を漏らしていたかもしれない。
そんな衝動を必死にこらえようとして、唇を血が出るほどきつく噛み締めて、両の拳を固く握り締めていた。


今……優しく接されるのは、嬉しい反面、とても辛かった。
多くを語らずにいる金澤先輩の、素っ気ない優しさが骨身に沁みていく。
情けない、しっかりしろ、立ち直れと怒鳴られるよりもよっぽど、こんな僕の姿を見ても叱責するような言葉を言われない方が心に響いた。


彼を僕の家に招くのは、とても久しぶりだった。
姉が生きていた頃には姉の友人たちとともに、彼も何度もここへ訪れて来ている。
いつのまにか、金澤先輩は姉の友人という立場ではなくて、僕自身のかけがえのない友人になっていた。


他人は皆、異口同音に「辛い気持ちはわかる」と、知ったかぶりで前置きをしてきた。
だが、有り余るほどの僕の稀有な才能をこのまま捨てていいわけがないと、僕の意思など無視して説教の始まりだ。
中には音楽界の損失だなどと、失笑ものの大袈裟な文句まで聞かせてくれた教師もいたほどだった。
周囲が僕を立ち直らせようと躍起になるほど、逆に僕の心情は重く淀んでいき、どんな言葉を聞かされても、上辺だけのきれいごとばかり並べるなと、頑なに心をくすませていくばかりだ。


望んでも手に入らないほどの才能の持ち主だと、ある教師は僕を指してそう言った。
――だからなんだ?
持てる者だからこその奢りだとでも言いたいのか?
こちらは、望んで音楽的才能を手に入れたわけではない。
たまさか優れた音楽の才能を血脈に伝える一族に生まれ落ち、物心つかないうちから音楽に囲まれ、何がなんだかわからないうちに、気付けば持て囃されていた。
曰く、早熟の天才だの、余人が羨むほどの天賦の才だのと、こそばゆくなるような褒め言葉を浴びるほど受けてきた。


その総てが――
姉の突然の客死という事件において、暗闇の中へと葬り去られてしまった……

今の僕は音楽が姉を不幸にした、早死にを招いたのだと、そう思っていた。
アルジェントら音楽の妖精どもが、口々に言っていた「音楽は人を幸せにする」という謳い文句は、空々しい嘘にしか思えない。
それなら姉は?
幸せだったなどと思えるのか?
恋も知らずに恋の調べを美しく奏でていたあの人は、若くしてその生命を音楽に擲ち、全てを捧げて死んでしまった。


音楽の才能など要らないから、平凡でもいいから、僕は姉に生きていて欲しかった……
それだけが僕の望みだった。
ファータが授けてくれたという音楽の祝福など要らない。
今の僕には、それが呪詛の産物のようにしか解釈できない。
自分が望んだ訳ではない生き方を、生まれる前から定められていたというのは勝手な話だ。
僕には僕の人生があり、生き方を模索する自由だってあったはずだ。

音楽の道を進むというのは、今の僕にとっては生き地獄そのままであり、茨の道を、無間地獄を進んでゆかねばならないのと同じだ。
やがて精神的に崩壊してしまうのが目に見えている。
生ける屍が奏でる音楽など、呪いの調べにしかなりようがないだろう。
――まったく、笑い話にもなりやしない……


僕は、自室に金澤先輩を招きながら、酔いに任せてあれこれと喋った、喋りまくった。
彼はただ僕の話を聞くだけで、時折相槌を打っている。
後で知ったのだが、これは心理学で使われる傾聴という手法らしく、カウンセリングの時などによく使用されるらしい。
精神科や心療内科へと出向こうとする発想すら浮かばずにいた僕の、嵐のような感情の受け容れ先になってくれたのは、年上の友人である金澤先輩だけだった。
今の僕を否定せず、ありのまま、みっともなく足掻く姿を見ても「ああ、そうか」と認めてくれている。

それがどんなにありがたかったか、僕は感謝の気持ちが尽きなかった。

拍手[21回]

姉が息絶えたその時から、僕の中のあらゆる明るい感情は消えてしまったに等しい。
笑うこともできず……波濤のように押し寄せてくる悲しみと、後悔の念に自分が徐々に食い潰されていくのを、静かに感じながら。
それに抗うこともせず、ただ――与えられた生を持て余している、それが今の僕でしかなかった。
死にたいわけじゃない。
このまま生きているのが辛いだけだ。
積極的に死を願う気持ちはない。
胸の中が黒い絵の具で塗りつぶされていくようだ。
心の内側に大きな空洞ができてしまったようで、今は何をするのでさえも虚しい。
心理学の本、愛する人に死なれた人が書いた本を読み耽っても、一向に心に響いてはこなかった。


――人は、死んだらどうなるのだろう。
そんな疑問を誰もが一度は考えたことがあると思う。
死者は何も語ってはくれず、その姿は見えず、声は聞こえない。
彼女の現状がどうなっているのかさえ、僕にはわからない。
願うのはただ一つ、姉がもう苦しんではいないことと、安逸な中にいてくれればいいと――ひたすらに、それを祈っていた。


想い出は消えることなどない。
場面場面が、まるで瞬間を切り取られたように色鮮やかに蘇ってくる。
姉が留学に発つ少し前に、姉とその親しい友人たちと、江ノ島に遊びに行ったっけ。
日本の風情を味わうには、やっぱり自分の愛着のある場所で、思いっきり楽しんでから行きたいと……
あの日の波間の輝きや、水の冷たさも今でも覚えている。
友人たちと戯れている姉の笑顔、飛び交う海鳥の群れと鳴き声。


あの時は金澤先輩がトンビにパンを奪われて怒っていたけど、僕らはそれがとてもおかしくてたまらなくて、馬鹿みたいにいつまでも笑っていた。
大勢の人間の中でただ一人パンを持っていた彼の傍まで、焦げ茶の影が閃いたと思ったら、あっと言う間にトンビに袋ごと持ち去られてしまって――
近くの売店には、トンビに気をつけろという注意書きもあったのに。
江ノ島に限らず、神奈川の海沿いの地域では当たり前にある光景だから、気をつけろと僕は金澤先輩に忠告したのに、彼は「面白いから持ってってみろ」と言ってパンを振り回したりしていたのだ。

――そうだ、金澤先輩はどうしているのだろう。
姉の葬儀以来連絡は来ていないし、こちらからもしていない。
彼は声楽家を目指しているので、星奏学院大の音楽学部で今懸命に励んでいるはずだ。
授業時呈も多く必須単位も履修しなければならない。
なぜ彼と顔を合わせないのか……単純に僕が学校に行っていないからだ。
外部からの電話も殆ど受けずにいるし、家にかかってくる電話が鬱陶しく感じる時には電話線をモジュラージャックごと引き抜いてしまっていた。


……一人にしておいて欲しい。
そう思って引きこもっているくせに、こうも長い間他人の声さえも聞く機会がないと慰めてくれる人もいなくなってしまったのだ……と、寂寥感 が押し寄せてくる。
勝手すぎる自分の言い草に、我ながら呆れ果てる思いだった。


本を買いに行きたくて、久しぶりに外出の準備を整えて、家のドアを開けた――



外は眩しくて……一瞬目の前がくらんでしまいそうに明るかった。
陽の光が暖かく感じるのと同時に、姉はもうこの陽光のぬくもりを感じることはないのだと――改めて、喪ったものの大きさを思い知らされる。


大きな悲嘆ではなくて、今度はそういった日常の些細な出来事が悲しみに繋がっていく。
歩いて行く街中の風景は変わらないのに、姉はもうこの佇まいを見ることはない。
この風を、光を感じることさえできない遠くへ行ってしまったのだ……


大きな書店に出向いて、あちこちのコーナー の書籍を探してみた。
新しい本の匂い、インクの匂いが何故か心を落ち着かせてくれた。
本の世界にのめり込めば、今感じている死にたいくらいの苦しみを、一時だけでも紛らわすことができる。
だからこそ、一層……


書店の外へ出て、さあ帰ろうかと思いながら駅前のロータリーへと来た。
本の買い物がそこそこ重くなってしまったので、帰路はバスにしようかと思って、バス停が立ち並ぶ箇所へと歩いて行った。


ふと視線を向けた先に、なんとはなしに怪しい人影が見えたような気がしてその人物の方へと少し近づいた。
その男は黒っぽい派手なスカジャンを着て、下はズタズタのジーンズを穿いている。
しきりに野球帽の帽子のツバを弄っているのだが、そわそわとしてずっと体を忙しなく揺らしている。
僕が言うのもなんだけど、明らかに挙動不審なそいつを眺めていたら、なんとそいつの方から僕に近づいてきたではないか――



「よう、兄ちゃん。電話よこしてきたんだろ?いいの仕入れてあっからよ、一本早く出せよ」
不自然に押し殺した声で囁いてきたそいつは、妙に馴れ馴れしい態度だった。
「――は?」
僕には男の言葉の意味が何一つ掴めずに、間抜けな返事が出た。
「とぼけんなよ。バツ欲しいって言ってきたのはおめーだろうが。ほら、あっちの隅っこ行ったら出してやっからよ、金と引き換えだ」

――その隠語でやっと理解できた。
どうやら男は薬物の密売人で、取引相手が僕だと勘違いしているのだ。
「人違いですよ」
「ああ?今更何言ってやがんだよ。早く金よこせっつってんだろうが」

男の口調が変わり、小さい声だがドスを効かせた低音で囁いてきた。
「ですから、人違いだと言っているんです」
「とぼけんなよ、おめえ。その顔色、常用者だろ?いくらばっくれたってわかるんだよ、こっちにはよ」

どうやら、僕は外見で薬物中毒者と見間違えられているらしい。
服装は小奇麗にしてきたつもりだが、この不健康な様子ではそう思われてしまうのかと、忸怩たる思いにかられた。
男が僕の肩に手を回そうとしてきたのを振り払おうとすると、相手が勝手に滑って転んでしまった。
「てめえ!何しやがんだコラ」
男は喚き散らしながら、みっともなく手足をじたばたさせていた。
知るか、そっちが勝手に勘違いをしてきたんだろうが。


その隙に僕は逃げ出したのだが、どうもここ暫くの不摂生が祟ってるようで体が重く、思うように動けなかった。
日曜の夕方、薄闇が迫ろうとしている中で僕は危機的な状況にいた。
警察に駆け込もうにも、息切れがひどくて交番まで辿り着けるのか――
掴みあいになってしまうか、それとも一方的にやられてしまうのか。
それも悪くはないと自暴自棄な考えが掠めたが、男の怒声が背後から聞こえてくると、僕は倒れそうになる体を動かそうとして、必死に足掻いた……

拍手[17回]

プロフィール
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yukapi
性別:
女性
職業:
派遣社員だけどフルタイム 仕事キツい
趣味:
読書。絵を描くこと、文章を書くこと。
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