僕は、本気で告げてくれているらしい金澤先輩の真剣な表情を見返した。
教会の周囲は静まり返っていて、しんとした空気の中を小雨が降りしきっている。
「……先輩の申し出は、ありがたいんですが。僕は受験が終わったら一人暮らしをする予定です。……例え受からなくても、そうするつもりでいるんです」
僕は、ゆっくりと刻み込むように……自分に言い聞かせるようにして口を開いた。
今、金澤先輩に甘えてしまっては、僕は一人で立てない気がする。
ずっと一緒にいてもらっては、彼がいない時が寂しくてたまらなくなるかもしれない。
それなら、お互いに一人でいて、たまに行き来や交流をすればいいんじゃないかと思っていた。
もしも僕がどうしようもない孤独感に襲われてしまったら、その時に……
できれば、彼に助けてもらえたなら……
一人暮らしをした経験もないのに、いくら親しくしている金澤先輩とでもいきなり同居をして、うまくいくとは限らない。
僕はこの関係が壊れてしまうのがとても怖い。
友達として時々会って楽しく過ごしていたけれど、ずっと一緒に過ごすことによって、お互いに嫌な面を見たり不愉快な目に遭ってしまうのが怖いのだ。
……まるで、恋人に嫌われたくないと思っている女の子みたいだ。
だが、僕の今の正直な気持ちだ。
勝手な言い分だろうか。
躊躇を交えながら、でも僕は率直に思うところを彼に語った。
金澤先輩は、うなずきながら黙って僕の意見を聞いていた。
「わかったよ。ま、おまえも当分忙しくなるし……気分変えたけりゃいつでも来てくれよ。なんか困ったことがありゃ、俺に言ってくれればいい。俺は、聞くことくらいしかできないけどな」
「いえ、ただ金澤先輩に聞いてもらえるだけで、それだけでいいんです。……先輩は、僕の言葉を否定しなかった。僕の周りの連中ときたら僕への全否定から始まって、説教に次ぐ説教ですよ。……もう、たまりませんでしたからね……」
先輩は、僕を見て穏やかな微笑を浮かべていた。
「俺、今夜は飲みたい気分なんだよ。おまえも付き合えよ、なっ」
話しながら先輩は大通りへと出て、タクシーを拾った。
僕も一緒に乗り込み、話の流れで彼の家に向かうことになった。
それから二人で痛飲し――最後には金澤先輩は酔い潰れてしまった。
先輩の家で飲んだりするのを繰り返しているうちに、どうやら僕は相当に酒に強いらしいというのがわかってきた。
金澤先輩なら泥酔して潰れてしまうほどの酒量でも、僕はそこまでには至らない。
快い酩酊感覚は味わえるし、気分はよくなって気が大きくなる。
一人で酒の味すらよくわからずに飲んでいた時よりも、ずっと量が進んでしまうのは何故なのだろうかと疑問に思った。
金澤先輩と、くだらない話をしたり真剣に話し込んでいるうちに、どうも僕は酒を煽ってしまう癖があるようだ。
このままではアル中になると呆れたように先輩から言われてしまうが、今は以前ほどアルコールに依存はしていないつもり……だ。
度を超さないようにと自重する意識はあるし、受験勉強の憂さ晴らしに週末にこうして飲む程度だ。
「あんま酒飲んでるともう成長しねえぞ」
「望むところですよ。背も、183あれば充分でしょう」
「いつの間にか俺に追いつきやがったな、おまえ。これからも伸びて190とか2メートルになったらなったで、そりゃ見ものだな」
「そこまでいくと、服とか靴探しとかが大変そうですからね」
「オーダーすりゃいいじゃんか。なっ、お坊ちゃん」
「それはそうですが……あ、オーダーのことですよ」
自分が先輩に揶揄されるお坊ちゃんだというのは、なんとなく自覚はしている。
金銭面や生活面で困った覚えはないし、おそらく僕はとても恵まれた環境にいるのだろう。
大体が、クラシックで身を立てていこうだなんて人間は、ある程度の生活のゆとりがなければ、とてもやっていけはしない。
実家にある程度の資産や財産があり、金に困らない人間が余技として続けていくものだと、僕は思う。
その日の生活にも困るような、明日の食の心配が尽きないような環境で、やり抜けるものではない。
死ぬほど頑張ったからといって報われるような世界でもないし、労苦や努力に対する正当な評価が得られると思うのは大間違いだ。
そんな険しい道に敢えて進む金澤先輩を、微力ながら精一杯応援したいという気持ちはある。
僕の分も頑張って欲しい……などと言うつもりはないが。
――姉が……
もしも姉が生きていて、僕がヴァイオリンを辞めたいと言ったとしたら彼女はどう答えてくれただろうか。
最初はやはり、僕の才能やこれまでの実績を惜しんで引き止めるだろう。
だが、僕の意思が強固なのを感じれば、僕の性格を知っている姉ならば最終的には、僕自身の選択を応援してくれただろうと思う。
……いや、そうだと信じたいのだ。
僕が姉とともに過ごした時を振り返るには、まだまだ多くの時間を必要とするだろう。
苦悩や辛苦から逃れて生きていくのなら、これしかない。
どうか悲しまないで欲しい、わかって欲しい。
僕はあなたを喪った悲しみと正面から対峙し続けていては、いつか正気を失ってしまうだろう。
半身を引きちぎられてしまったような痛みが僕を壊してしまう。
街中でふと姉の奏でていた曲を耳にすると、心が切り裂かれるような苦痛に襲われる。
それほどまでに、僕の心には深い亀裂が生じてしまった……
運命の糸というものが、どこかにあるのだろうか。
それが自分にはどうしようもないものだなどとは、僕は思わない。
僕は今初めて自分の意思で、歩むべき道を選ぼうとしている。
叶うのならば見守っていて欲しい……
あの世と称される場所があるのならば。
できるのなら、天国と呼ばれる場所から。
姉の微笑が目の前を横切り、淡く去って行った気がした。