「――暁彦。暁彦、起きて。起きなさい――」
柔らかな姉の声がかかり、僕は肩を軽く揺すぶられる。
まだ重い瞼を開くと、眩い陽光とともに姉の輝くような笑顔が間近にあった。
「――ああ、姉さん。いつの間に留学からこっち戻ってきたの?」
「あなたが調子乱してるって聞いて、ちょっとだけ様子を見に来たのよ。どうしたの?ここのところヴァイオリンも弾かないどころか、学校にもろくに行ってないって言うじゃない」
「だって、それは。姉さんが――」
死んだ――そう言いかけるのに、僕の口からはその言葉が出て来ない。
「私がどうしたの?……おかしな子ね。悪い夢でも見てたんじゃないの?」
姉は屈託なく明るい笑みを向けて、僕を見ている。
ああ、そうか。
姉さんは生きているんだよ、本当は。
留学先で亡くなっただとか、そんなのが嘘で夢だったんだ。
だってほら、今だって元気でそこにいるじゃないか。
僕が酒に溺れて学校にろくに通わずに、ヴァイオリンを捨てた形になるだなんて馬鹿げている。
だから僕は――
「ねえ、暁彦。何か弾いてよ」
「何?リクエスト?」
「そうよ」
「――だって無理だよ。僕のヴァイオリンはずっと学校に置いてあるし。家にあるやつはみんな調子がおかしいし。第一、僕はもう……」
「もう……なあに?どうしたの?」
――おかしい、何かがおかしい。
ひどい違和感を覚えているのに、どうしてかそれの正体がなんなのかが掴めない。
話そうとする顔がこわばり、唇が震えていく。
「僕はもう……ヴァイオリンは――」
そう言って姉の顔を見ると、彼女は悲しそうに僕を見つめていた……
――目覚めると、カーテンの隙間から陽光が漏れているのがわかる。
今は何時なのかもわからない、時間の感覚さえあやふやだ。
全身に汗をかいていて……ついでに涙のおまけつきだ。
いっそ、気が狂ってしまった方が楽なのに…………
酩酊が去って素面の状態に戻ると、僕の中の理性が僕を苛む。
幾度も幾度も、繰り返し姉の夢ばかりを見続けている。
毎日のように、酷い時にはうたた寝をしているような時でさえも。
日に何度も――心を切り裂かれるような辛い悪夢を……
どうして、未だに正気を保っていられるのだろう。
おかしくなってしまえるものなら、そうなってしまいたい。
現実だけでも辛く苦しいのに、夢の中でさえも悪夢に追い回されてしまうだなんて、ひどすぎる。
夢の中の姉は、明るい笑顔で現れて悲しそうな顔で消えた。
何かを言いたかったのだろうか。
僕にヴァイオリンを捨てるなと、やめて欲しくないと言うのだろうか。
――今の僕は、ヴァイオリンの曲を聴くことさえしたくはない。
何故なら、姉と過ごして練習に励んできた日々を否応なく思い起こさせられるからだ。
あの曲はいつ練習した、姉と奏でたものだと……
楽しかったあれこれの想い出が、今では鋭い棘となり変わって僕を突き刺す。
だからこそ、音楽が絶えない音楽科の自分の教室には行きたくないのだ。
今の僕にはそんな環境に身を置くことは、死ぬよりも辛い拷問に等しい、地獄の責め苦に変わってしまった……
勇気がない、意気地がないと呆れたり罵る輩もいるだろう。
僕の才能を惜しんでくれる教師にも講師にも申し訳ないが、僕の音楽はもう――
姉とともに、あの冷たい墓石の下で眠りに就いてしまった……おそらくはこのまま、永遠に。
わかっているんだ、こうしている僕を姉が見ているなら、きっと彼女は悲しんでいるはずなのだと。
生を持て余して、日々をただ悲嘆に暮れながら自堕落に、無為に過ごしている僕を姉がどこかから見ているのなら、きっと彼女も泣いているだろうと……
――でも、せめて今だけは悲しみのどん底にいたとしても、こうやって姉の死を悼んでいたい。
いつか冷静になれる時が訪れてくるまでは、ここでこうして喪に服していたかった。
誰かと話すことさえも億劫でならず、元々本は好きだがのめりこむように大量の本を次々に読み耽ったり、クラシックと無関係なCDを聴いたり、DVDを観たりして日を過ごしていた。
通いのお手伝いさんが週に2・3回訪れて来るが、僕の部屋には決して入れさせなかったし、食事もろくにせずにいる僕を心配してくれていたが両親は不在がちな中、僕は一人自室にこもっていた。
時には姉の部屋に入り、留学前のそのままになっている室内で……
姉の遺した数々の品物を見ては、滂沱の涙が流れるのに任せた。
もう、彼女はここへと戻ってくることはない。
それなのに、家のあちこちから姉の気配を感じることがある。
振り向けばそこに姉がいるようでたまらなくなるし、時にはすぐ背中側に――ひどく近くにいるような気配をさえ感じるのだ。
錯覚なのか、霊感と称されるものなのかもわからない。
僕は幽霊や霊魂の実存の可否については、どちらかと言えば懐疑的な立場だったが、ファータなどという非現実的な存在があるのだから、もしも人が亡くなった後でも魂が残るのなら、そうであって欲しいと願っていた。
いつも家にいたはずの人が急にいなくなる。
遠くへ離れて行ってしまった――
それが人の死なのだと思っていたし、姉はまだ海外の留学先に居て、ただ連絡がつかずにいるだけなのだ、そう思いたかった。
いつでもここにいた人が、もう二度とここへは現れなくなる。
同居人が亡くなった後の遺族は同じ家でどうやって暮らして行くのかと、とても残酷なことじゃないのかと、以前思っていたことがある。
家中のあちこちに、彼女の足跡と息吹が残っているのだ。
あのテーブルで、あの椅子で姉は笑っていた、本を読んでいた。
時には僕への説教も行われた。
反抗期真っ盛りの十代中盤、異性の姉には理解してもらえないだろう荒々しい衝動が起きたりしていた。
時に干渉してくる姉を鬱陶しいと思っていたし、放っておいてくれと思っていたこともある。
僕の年齢が上がるにつれ、ようやく姉に少しは優しく接してやれる心の余裕ができてきた、そう感じていた。
いつのまにか涙のしずくが落ちて、僕の手の甲を濡らしていた。
泣くなんて男らしくない、耐えなければならない。
そう思っていても、心の裡で吹きすさぶ感情の嵐は一向に去ってはくれない。
せめて人前で泣かなくなれる時が来るまで――
涙が涸れ果ててしまうまではこうしていたかった。
姉の死後の約一ヶ月は、こうして日々が過ぎ去るのを待っていた。
こういうのが本当に読みたかったのに
ああ、
もう
つら過ぎる・・・!
さくさく話が展開していくんじゃなくて、
つらい事ってなかなか過ぎていかなくて
頭の中が重くてドロドロしてとても鈍くなってるのに
妙に感覚が冴える瞬間があって・・・。
なんて見事な描写。
ああまさに!
よしもとばななの小説を読んでる感じ!
(↑嫌いだったらすいません)
今の三十路の理事長は
「音楽なんて数ある娯楽の中の一つに過ぎないし全てを賭すようなものじゃない。いろんなものを見て経験して視野を広く持て」
みたいな達観したような(酒の席でのオッサンのような)大人になったけど、
ここにいたるには相当つらかったろうなあ。
音楽一本で十分やっていけるのにスッパリ辞めるのって、自罰の意味もあるのかな?と考えたり。
この後の展開も期待しています!
あと、理事長には本当に申し訳ないと思うんだけど、
グデグデに病んでる理事長が・・・
嫌いじゃないわ!
悪くないわッ!(急にオカマ)
前に暁彦君のお話を書いていて、それを下敷きにしているとはいえ、恋愛要素もないし苦悩に満ちた
重い話だから、万人にウケるわきゃないよなあと思いつつアップしていました。
予想通り過半数の人が素通りしてるのを見て、やっぱりそうかと思いましたが、私自身、こういう
くそ真面目ゆえにこそ悩んで苦しんでる若き暁彦君を愛おしく思っています (´;ω;`)
えと、私はよしもとばななさんの本は読んだことないんですよ~!
文体の影響はどこからだろう…70近くなっても青春ぽい小説を書いてらした平井和正さんかなあ。
見事と言って貰えると嬉しいです~!
文化祭のお話も一応アイディア練ってまして、そっちは明るくいこうと思ってるので、入り混じりつつ
連載していくつもりであります♪
しかし今回の理事長のヤフモバイベで激怒したので…おっさん喧嘩売ってんのかよ?みたいに
思ってしまったのです!!理事長を理想化してそれに沿わないと文句言うって
まさしく私が数日前に書いて出した、ストーカーの事後始末のお話そのものじゃん!!
と思うと余計に自家撞着というのか、なんつーか。いろいろ思うところがあるイベントでした(´・ω・`)