――その日は朝から雨が降っていた。
晩秋の冷たい空気を更に凍てつかせるような……土砂降りではないが気にならない程度の霧雨という訳でもない。
涙雨、ってやつか……
俺は胸の中で独りごちた。
黒い傘を差した喪服の集団は、星奏学院にほど近い教会の墓地で、美夜の墓を取り囲むようにして佇んでいた。
所謂三十日祭というやつで、仏教式で例えるなら四十九日に該当する追悼の儀式らしい。
カトリックだとかプロテスタントの区別さえ怪しい俺だが、美夜が死んでしまった悲しみは当然あるが、今は遺された吉羅の心理状態への懸念が大きくなっていた。
白い百合の花が美夜の墓に手向けられていくのを見て、墓標にかがみ込んで合掌した。
喪服に身を包んだ吉羅の顔はやや蒼ざめたように見えたが、少ししてそれは漆黒のスーツがあいつの顔に陰翳を作り出しているんだとわかった。
最近までろくに飲食物を摂っていなかったはずだが、少しは食うことを覚えたらしい。
それはこの前、あいつがひどく酔っ払った夜にわかっていた。
俺にできるのは、ただあいつの言葉を聞き、飲み込むことだけだった。
いつでも家を出て行けるように……と半分冗談だろうが、残り半分はおそらく本気で、あいつは荷物の整理をしていたんだろう。
CDやDVDだらけだった部屋の中でも、クラシックの音源や映像は殆ど片付けられちまっていたし、楽器はおろか楽譜や教本の類ですらも、一切があいつの部屋から消えてしまった。
それらを収納していた棚やラックも無くなっていて、代わりにダンボールが積まれ、やけに広く感じた室内が寒々しくも思えた。
残ったのはモノクロームの色合いで統一された机や椅子、本棚とベッドくらいなものだ。
以前壁に貼りだされていた指揮者や奏者のポスターも剥がされちまっていて、アイボリーホワイトに見えた壁には、ポスターの痕が四角く切り取られたように、ぽっかりと青白さを浮かび上がらせていた。
神父が説話をしながら遺族と茶話会を行うという式次に従い、教会の一室に誘導されていく。
吉羅は喪主の父親の傍に居て、美夜の最も近い肉親なので上座に位置していて、親戚に取り巻かれた形になっていた。
法事などの精進落としの形式よりは簡略な軽食が出て、口々にあれこれと話をしている吉羅の親族を見るともなしに俺は眺めていた。
俺はもう二十歳なので飲酒を勧められたが、さすがにこんな席で飲むような気分でもない。
吉羅の方は、ソフトドリンクを無表情に流し込んでいる。
あいつこそこんな場ではなく気楽な場所で飲みたいだろうにと、俺は吉羅に同情した。
「――時に、暁彦。音楽科から普通科への転科だが、受理されたよ」
吉羅の叔父の校長からそんな言葉が聞かされて、俺ははっとして顔を上げた。
「そうですか。ありがとうございます」
なんの感情も覗かせないような、一本調子の素っ気ない文言が吉羅の口から出た。
台本の科白を棒読みしているように思える。
「……念のために訊いておくが。気持ちは変わらないんだな?」
校長が吉羅に阿るようなねっとりした口調で、あいつの顔を覗き込むようにして尋ねた。
吉羅の眉根が寄せられて、途端に険しい顔つきになった。
「何度訊かれても答えは同じです。――気分が悪いので、僕はこれで失礼します」
眉間に深い縦皺を刻んだまま、吉羅は茶話会の会場から飛び出した。
誰も咎め立てもしないが、呼び止めもしない。
あいつが周囲からも腫れものを扱うようにされているのが一目でわかった。
――まるで、大怪我をした肉食獣がその場にいるようだった。
誰も近づくな、話しかけるなと体中で訴えかけている。
他人の好奇の視線や接触を一切遮断したがる、取り付く島のない頑なな態度だ。
全身に漲らせているそれは、およそ余人を寄せ付けない電流のような障壁に思えた。
群れからはぐれ、傷を負い、傷口から血を流している若い一頭の狼――
俺の眼には、あいつはそう見えた。
深手を負った傷口は塞がらず、ちょっとしたきっかけでそこから血が滴り落ちていくような事態を招くんだろう。
校長に吉羅を傷つける意図はないにせよ、今のあいつは神経線維が剥き出しになっているような危うさが見て取れた。
「よう、吉羅。中抜けか?」
「……金澤先輩……」
俺が傘を差しかけると、さっきまで刺々しかった吉羅の表情が一気に緩んだ。
外は霧雨が降り続けていて、吐く息が白くなるほど冷えていた。
「いいのか?親族ご一同を放っといてよ」
「いいんですよ。……なんの集まりだったのかの趣旨も忘れて、まるで何かの宴会みたいに場が崩れてくる。神式だろうが仏教の法事だろうが、僕は、こういうのは嫌いです」
きっぱりと――だが、吐き捨てるように吉羅は言い切った。
それは少年ならではの潔癖さを以って、大人どもの小狡さなどを寄せ付けないほどの清冽な気配を感じさせた。
「うるせえオヤジどもの、酒臭いお喋りや、煙草の煙でこっちがどうにかなっちまうわなあ。俺も好きじゃねえよ、こんなのは」
俺の言葉に、吉羅は黙って頷いていた。
「あー、ヤニくせえ。なんつーの、独特の匂いがつくよな、タバコってよ」
俺は自分の喪服の袖口に染み付いた匂いに顔をしかめた。
「……ですね。僕も、興味本位で試してみたんですが、体質に合わないようで全然受け付けませんでしたよ」
俺は意外な言葉を耳にした驚きで、絶句して吉羅の整った顔を見た。
このお坊ちゃん顔で、タバコねえ……
そりゃ似合わないことこの上ない。
「――おまえが?タバコ?」
ついつい失笑を抑えきれずに、曖昧な半笑いの表情を作ってしまった。
「おかしいですか?」
「そりゃ……まあなあ」
きょとんとして俺を見返す吉羅の顔に、ますます笑えてしまう。
「そんなに笑うことないでしょう……」
言いながら、吉羅はどこか憮然として納得しきれていないような表情をしていた。
「無理すんなって、こないだも言ったろ?」
俺は吉羅の肩を叩いた。
「別に無理したわけじゃなく、ただの好奇心ですよ。もっとも、数本吸ってみて何も面白くもなかったんで、やめました」
「おいおい。面白くなっちまうタバコだったら、やばいだろうが」
言いながら、俺ははたと思い出した。
こないだ、こいつは駅前でおかしなチンピラみたいなのに絡まれてたんだっけ。
薬物の密売人に取引相手だと間違われたって言ってたよな。
……もしかして……
それは、間違いなどではなくて……
いやな想像をしかけてしまうと、背筋に冷たい汗が伝い落ちていった。
血の気が足元から音を立てて引いていくような不快感がある。
「……なあ、吉羅。おまえ、あそこ出てくんなら、マジで俺の下宿に来ねえ?」
咄嗟に閃いたまま口に出した俺の言葉に吉羅は眼を見開き、黙って俺の顔をじっと見ていた。