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Since2013.10~「100万人の金色のコルダ」をベースに、吉羅暁彦理事長と日野香穂子の小説を連載していました。現在単発で吉羅理事長楽章ノベライズや勝手に楽譜イベ内容を補完した妄想小説を掲載中。R18小説・HコミックをDLSITEでダウンロード販売中。イラストや漫画も無料掲載中♪一部パスワードあり
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「――暁彦。暁彦、起きて。起きなさい――」
柔らかな姉の声がかかり、僕は肩を軽く揺すぶられる。
まだ重い瞼を開くと、眩い陽光とともに姉の輝くような笑顔が間近にあった。

「――ああ、姉さん。いつの間に留学からこっち戻ってきたの?」
「あなたが調子乱してるって聞いて、ちょっとだけ様子を見に来たのよ。どうしたの?ここのところヴァイオリンも弾かないどころか、学校にもろくに行ってないって言うじゃない」
「だって、それは。姉さんが――」
死んだ――そう言いかけるのに、僕の口からはその言葉が出て来ない。

「私がどうしたの?……おかしな子ね。悪い夢でも見てたんじゃないの?」
姉は屈託なく明るい笑みを向けて、僕を見ている。

ああ、そうか。
姉さんは生きているんだよ、本当は。
留学先で亡くなっただとか、そんなのが嘘で夢だったんだ。
だってほら、今だって元気でそこにいるじゃないか。
僕が酒に溺れて学校にろくに通わずに、ヴァイオリンを捨てた形になるだなんて馬鹿げている。

だから僕は――

「ねえ、暁彦。何か弾いてよ」
「何?リクエスト?」
「そうよ」
「――だって無理だよ。僕のヴァイオリンはずっと学校に置いてあるし。家にあるやつはみんな調子がおかしいし。第一、僕はもう……」
「もう……なあに?どうしたの?」

――おかしい、何かがおかしい。
ひどい違和感を覚えているのに、どうしてかそれの正体がなんなのかが掴めない。
話そうとする顔がこわばり、唇が震えていく。

「僕はもう……ヴァイオリンは――」
そう言って姉の顔を見ると、彼女は悲しそうに僕を見つめていた……

――目覚めると、カーテンの隙間から陽光が漏れているのがわかる。
今は何時なのかもわからない、時間の感覚さえあやふやだ。
全身に汗をかいていて……ついでに涙のおまけつきだ。

いっそ、気が狂ってしまった方が楽なのに…………
酩酊が去って素面の状態に戻ると、僕の中の理性が僕を苛む。
幾度も幾度も、繰り返し姉の夢ばかりを見続けている。
毎日のように、酷い時にはうたた寝をしているような時でさえも。
日に何度も――心を切り裂かれるような辛い悪夢を……

どうして、未だに正気を保っていられるのだろう。
おかしくなってしまえるものなら、そうなってしまいたい。
現実だけでも辛く苦しいのに、夢の中でさえも悪夢に追い回されてしまうだなんて、ひどすぎる。

夢の中の姉は、明るい笑顔で現れて悲しそうな顔で消えた。
何かを言いたかったのだろうか。
僕にヴァイオリンを捨てるなと、やめて欲しくないと言うのだろうか。
――今の僕は、ヴァイオリンの曲を聴くことさえしたくはない。
何故なら、姉と過ごして練習に励んできた日々を否応なく思い起こさせられるからだ。
あの曲はいつ練習した、姉と奏でたものだと……
楽しかったあれこれの想い出が、今では鋭い棘となり変わって僕を突き刺す。

だからこそ、音楽が絶えない音楽科の自分の教室には行きたくないのだ。
今の僕にはそんな環境に身を置くことは、死ぬよりも辛い拷問に等しい、地獄の責め苦に変わってしまった……

勇気がない、意気地がないと呆れたり罵る輩もいるだろう。
僕の才能を惜しんでくれる教師にも講師にも申し訳ないが、僕の音楽はもう――
姉とともに、あの冷たい墓石の下で眠りに就いてしまった……おそらくはこのまま、永遠に。

わかっているんだ、こうしている僕を姉が見ているなら、きっと彼女は悲しんでいるはずなのだと。
生を持て余して、日々をただ悲嘆に暮れながら自堕落に、無為に過ごしている僕を姉がどこかから見ているのなら、きっと彼女も泣いているだろうと……

――でも、せめて今だけは悲しみのどん底にいたとしても、こうやって姉の死を悼んでいたい。
いつか冷静になれる時が訪れてくるまでは、ここでこうして喪に服していたかった。

誰かと話すことさえも億劫でならず、元々本は好きだがのめりこむように大量の本を次々に読み耽ったり、クラシックと無関係なCDを聴いたり、DVDを観たりして日を過ごしていた。

通いのお手伝いさんが週に2・3回訪れて来るが、僕の部屋には決して入れさせなかったし、食事もろくにせずにいる僕を心配してくれていたが両親は不在がちな中、僕は一人自室にこもっていた。
時には姉の部屋に入り、留学前のそのままになっている室内で……
姉の遺した数々の品物を見ては、滂沱の涙が流れるのに任せた。

もう、彼女はここへと戻ってくることはない。
それなのに、家のあちこちから姉の気配を感じることがある。
振り向けばそこに姉がいるようでたまらなくなるし、時にはすぐ背中側に――ひどく近くにいるような気配をさえ感じるのだ。

錯覚なのか、霊感と称されるものなのかもわからない。
僕は幽霊や霊魂の実存の可否については、どちらかと言えば懐疑的な立場だったが、ファータなどという非現実的な存在があるのだから、もしも人が亡くなった後でも魂が残るのなら、そうであって欲しいと願っていた。

いつも家にいたはずの人が急にいなくなる。
遠くへ離れて行ってしまった――
それが人の死なのだと思っていたし、姉はまだ海外の留学先に居て、ただ連絡がつかずにいるだけなのだ、そう思いたかった。

いつでもここにいた人が、もう二度とここへは現れなくなる。
同居人が亡くなった後の遺族は同じ家でどうやって暮らして行くのかと、とても残酷なことじゃないのかと、以前思っていたことがある。

家中のあちこちに、彼女の足跡と息吹が残っているのだ。
あのテーブルで、あの椅子で姉は笑っていた、本を読んでいた。
時には僕への説教も行われた。
反抗期真っ盛りの十代中盤、異性の姉には理解してもらえないだろう荒々しい衝動が起きたりしていた。
時に干渉してくる姉を鬱陶しいと思っていたし、放っておいてくれと思っていたこともある。
僕の年齢が上がるにつれ、ようやく姉に少しは優しく接してやれる心の余裕ができてきた、そう感じていた。

いつのまにか涙のしずくが落ちて、僕の手の甲を濡らしていた。
泣くなんて男らしくない、耐えなければならない。
そう思っていても、心の裡で吹きすさぶ感情の嵐は一向に去ってはくれない。
せめて人前で泣かなくなれる時が来るまで――
涙が涸れ果ててしまうまではこうしていたかった。

姉の死後の約一ヶ月は、こうして日々が過ぎ去るのを待っていた。

拍手[14回]

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――これは現実のことなのか、未だに判然としない。
出口のない悪夢の中を彷徨い続け、迷い込んで歩き続けている……
そんな錯覚が僕の五感を鈍らせていた。

もう、この世界のどこにもあの人はいない……
辛すぎる現実を現実として捉えたくはなくて、眠りの中へと逃避する。
今度は終わりのない悪夢が、毎日、毎晩僕を責め苛みにくる――

姉が実は生きていた、そんな夢を幾度となく繰り返し見続けていた。
それには、よくもまあこんなにも……と言いたくなるほどのバリエーションが付き物だった。
姉は病気にもかかっていなくて、留学先で元気にしていて、今はまだ帰って来ていないというものだったり。
生き返ってきても、それはこの一日だけなのだと悲しげに言われて、僕はその姉の手に取りすがって泣いたり。

――その時には、生まれて初めて夢で涙を流しながら起きるという経験をしてしまった。

実は生きていた、実は元気でいた――というのは僕の中の切実なる願望だ。
それが夢という形をとって現れると、夢の中では本当にこれが現実なのだと思い込んでいるのだから、始末が悪い。
僕の望みが目の前で具現化しているというのを、夢の僕は本心から信じ込んでしまっている。

眼を覚ますと、いつもいつも決まって自分に言い聞かせる。
姉はもういない、姉はもう死んでしまったのだ――と。
一週間経とうが、半月経とうが、……そして一ヶ月経とうが、僕の感覚は現実離れした浮遊感を伴っていて、全てにおいての気力が湧かない。
積極的にではないが、体調が悪いと言っての登校拒否を行い続けた。
三年生の半ばを過ぎて、大学への進学を考えなければならない時期だ。
だが、到底そんな気になどなれやしない。

姉を最終的に追い詰め、その命を擲たせたのは音楽だ。
以前まではソリストになりたいと希望を持ち続け、必死の思いで修練を積み重ねてきた。
――が、姉を殺した音楽になど、僕は身命を賭す謂れなどない。
日増しに音楽を、そして僕ら姉弟を音楽の道へと誘導してきた音楽の妖精・ファータどもへの憎しみが募ってくる。
これは姉自身が選んだ道だ、ファータの強制などでもなんでもないのだ。
理屈ではそうわかっている、アルジェントをはじめとする連中を憎むのは筋違いなのだと、理性の中では警告を発している。

ただ――もう、自分の目の前には現れてくれるな。
そうアルジェントに告げた時、知らずに涙がこぼれ落ちた。
姉の葬儀から一週間が経った頃だろうか、僕の涙を初めて見たアルジェントは悲しそうな目をして、何も告げずに虚空に消えた。

最初は、理不尽な運命への怒りが大きかった。
なぜ姉が若くして死ななければならなかったのかと、血飛沫くような憤りが僕の中で膨らんでいった。
体調が悪かったのにそれを我慢しぬいて隠し通していた姉にも、姉の体調不良を早くに察知してはくれなかった周囲の人間にも怒りを覚えた。
それも一種の八つ当たりでしかない、わかっている。
最終的には姉自身が、まるで自死を選ぶかのように音楽に殉じて逝ってしまったのだ……

何故、僕は姉の留学先へと赴かなかったのだろう。
何故、もっと頻繁に電話をしてやらなかったのだろう。
一回顔を見に行くよと言ったその時に、どうして実行に移さなかったのか。
――何故、どうして……
僕が早くに気付いてやりさえすれば、姉はまだそこに居て僕に微笑みかけてくれていたのかもしれない。
姉を救えなかった自分へと、繰り返しの後悔の念が訪れてくる。

最終的には自分自身への不甲斐ない思いが、一どきにどっと押し寄せてくる。

――もっと、姉に優しく接してやっていればよかった。
僕を思っての助言や諫言を、僕はまともには取り合わなかったり、話半分に受け流してしまったり、そんなことばかりをしていた。
そんな時、いつも決まって姉は仕方なさそうに弱々しく微笑を浮かべていた……

最後の最後に、姉と話したシーンがリフレインする。
空港で姉を見送り「体に気をつけて。頑張って」
そんなありきたりの、当たり前の言葉しかかけられなかった。
「体の調子がおかしくなったら、すぐ医者に行くとか、日本に帰ってきて。一人では抱え込まないで」
――今ならば、姉に僕はそう言ってやりたかった。
搭乗予定の飛行機へと向かう後姿、それがいつまでも僕の脳裏に焼きついている。

自分を責め続け、その度に僕は涙を流した。

涙というものは、どうやら涸れ果ててしまうことなどないらしい。
辛い現実を忘れたくてアルコールに手を出してみると、余計に悲しい思いをするだけだったりした。
酔えば思考回路が変わるだろうと思えば、ひどく落ち込む結果に終わって後には頭痛、悪心、自己嫌悪の嵐だ。
だが、肉体的な苦痛で精神的な煩悶を押さえ込めている、それだけは現実の出来事だった。
だから、うまくもないアルコールを貪るように飲み続け、酩酊の中で極彩色の夢を見る――
何が現実で何が妄想なのかの境目さえがあやふやに溶け崩れていて、僕のこれまでの日常生活は完全に瓦解していった。

自分が音楽科の生徒であるという現実を、これほど呪わしく思う日が来るとは、姉が元気だった頃は想像もしていなかった。
一ヶ月近く学校に登校しない僕を心配して、担任や副担任、受け持ちの講師などが電話をかけてきたり、時には大挙して家まで来訪してきた。

僕はもう音楽の勉強をする気は失せてしまった、今は何よりも日々を暮らして、無為に時を過ごしているのさえ辛い。
そう言って追い返すのだが、講師も教師達も、僕の実績や才能を惜しむ言葉を重ねて、僕を説得しようとする。

――頼むから、もう放っておいてくれ。
そう言い放ってドアを乱暴に閉める。
静寂のただ中、僕は睡眠とアルコールに逃避する日々を過ごしていた。

食欲は殆どないに等しく、空腹感もおぼろげにしか感じられない。
興味本位で煙草に手を出してみたが、咳き込むばかりでうまくなんかない。
外に出る気力さえないのだが、これが街中なら、簡単に所謂“草”や薬物に手を出していただろう。

そこまで堕ちたくはないという最後の矜持だけが、かろうじて僕に残されていた。

拍手[16回]

――今夜までに、この策定資料を仕上げなければ。
私は日野君にコーヒーを淹れてもらう傍ら、ひたすらにPCに向かって文書を練り上げる作業に没頭していた。
「ねえ、理事長。今夜の月はスーパームーンって呼ばれるそうですよ」
なんだそれは……どこかのアニメの主人公のような名称だな。
無粋な呼称だと思いつつ「それがどうかしたのかね」と、口先だけで彼女をあしらう。


昨晩が満月だったのだが、生憎の曇り空でよくは見えていなかった。
今夜は月が最も地球に接近し、大きくはっきりと見える。
その現象をスーパームーンと呼ぶのだそうだが、もう少し気の利いた名付けはできないものだろうか。
「で、スーパームーンがなんだって?」
作業中の手を止めて彼女の方に顔を向けるが、彼女は言葉を濁した後に、黙り込んでしまった。
多忙な時だからこそ、女性特有の拗ねたり愚図ったりという現象は苦手だ。
ただでさえ気持ちがささくれ立っている時に、変に絡まれては敵わない。
「言いたいことや、したいことがあるのならはっきり言ってくれたまえ」
こちらは超能力者でもなんでもないのだ、口に出して言わずにいる事柄を察知しろなどと無謀な要求は御免被りたい。

「お忙しいのはわかっています。でも、今夜は五分間だけ私にください――」
おやおや、随分と控えめな要求だ。
この状況を理解してくれているのはわかる。
今夜のうちにまとめねばならない文書を作成し、現在打っている文をその叩き台にはしておきたいのだ。
「――わかった。三十分ほど待っていてくれたまえ」
「はい」

私の叩き続けるキーボードの連続した音だけが、理事長室に響いている。
今は頭脳をフル回転させている時なので、下手なBGMも何も要らない。
ただ静かにそこに居てくれるだけ、それだけでいい。
彼女が傍に居ることすら忘れかけてしまうほど――静かだ。
時折彼女が読む本のページを繰る、紙の擦れる音の他には、部屋の中は静まり返っている。
最初こそ彼女は私の文章を打ち込むスピードに驚嘆していたが、そのうちに興味を失くしたようだ。
ああ、真面目に秘書が欲しい……
自分で何もかもをこなさなければならないのは、時としてオーバーワークとなり果ててしまう。
取り立てて有能でなくともいい、凡庸でいいから自分の仕事を代わりにこなしてくれる人材が居てくれたらいいのに。

弱気な思考が浮かんでしまうのは、やはり疲労がもたらしているのだろう。
――現実には有り得ない希望的観測を持つなどとは、くだらない。
そんな戯言は心の片隅に追いやり、ひたすらに目前の作業に没頭する――



――やっと一段落つきそうだ。
私は作業をやめて日野君の方に顔をやると、彼女も私の視線に気付いた。
腕時計の盤面の時刻は夜の八時を示そうとしている。
「これで大方の目処はついた。君を送って行こう」
なんとも言えない微笑を浮かべる彼女が、いじらしく思える。


私が駐車場の方へは向かわず、徒歩で正門に向かって行くのを見て彼女は車には乗らないのかと訊いてきた。
「せっかくの月を見るのならば、歩いて日野君の家まで送って行くよ」
手も繋がず、腕も組まずに肩を並べて歩く。
夜空に浮かぶ星々と、望月から一日経ってほんの僅かに欠けた月を眺めながら。

ゆっくりと歩く彼女に合わせて、秋の気配を伝えてくる夜風に吹かれながら足を運ぶ。
ちょっとした散策気分を味わいつつ、彼女の住居までの約一kmを歩いて行く。
今は暑くもなく寒くもなくて、昼間よりも少し冷えた夜気が心地いい。
「――あ、すごい。きれい……」
月の周囲が薄い雲に覆われ、その丸い輪郭が光でぼやけたように滲んでいく。
月光を丸く囲むようにして現れた複雑な色合いが、まるで円形の虹のように広がって見える……
「……ああ。虹のようだな……」
暫し足を止めて、その幽玄な現象に見入るために道の端に佇んだ。


雲が厚くなり、月の姿を覆い隠す頃に再び歩き出す。
「――昨日は十五夜だが、今夜はなんと言うか知っているかね?」
気の利いた教師ならばその手の説明があるやも知れないが、相手はあの金澤さんだ。
おそらくは風流ごとに関する話題など出しはしていまい。
「いえ、わかりません。……十五の次は十六だけど……?」
「十六夜と書いて、いざよい、と読むんだ」
「十六夜……素敵な響きですね。今初めて知りました」
やはり知らなかったか。
花鳥風月、四季折々の事象に触れて感性を磨くのは彼女のために他ならない。
「せっかく、日本古来からの美しい言葉があるのだからね。無粋な外来語で表現されては興醒めというものだ」
「そうですね。私もそう思います」


――そうしているうちに、日野家の門前まで辿り着いた。
「じゃあ……。あの、今日は嬉しかったです」
月見の散歩が嬉しいなどとは、ずいぶんとささやかで可愛らしい望みだ。
そんな彼女にとある言葉をかけたくなってしまった。
「今日は、月が本当に綺麗だったね」
「……ええ。そうですね」
言いながら、彼女は首を傾げている。
やれやれ、これも通じないか。
私は苦笑を浮かべつつヒントを与えることにした。
「月が綺麗ですね、の語句で検索してみたまえ」
「あ、ちょっと……」

引き止めたがる彼女の言葉を背に小さく手を振り、私は学院の方へと踵を返した。
ここで全ての種明かしをしても面白くない。
後は彼女自身で、答えを引き当ててもらわなくては。



今頃はさぞ驚いているか、慌てているだろう彼女の反応を思うと、いつしか唇が笑いの形を描いているのに気付く。


――何気ない日々の、変わりゆく季節の移ろい。
小さなことでも共有できる相手がいるというのは、悪くはないものだ。

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――七月七日、七夕。
生憎と朝から薄曇のどんよりとした空が広がっていたが、ついにその灰色の梅雨空から雨の雫が落ちてきた。
湿った空気が肌にまといつくのが少し不快だ。
校内のあちこち、とりわけ音楽科のレッスン室や教室では「たなばたさま」の曲が演奏されているのが私の耳に入ってきた。

笹の葉さらさら……か。
最近では、もう滅多に見られない光景だが街中でたまに笹飾りをしている家がある。

それすらも珍しいものになってしまったが、風流を愛でる気持ちになれる。
何故か大きめのスーパーや広いコンビニ、公民館や図書館などで大きな笹に色とりどりの短冊がたなびいている。
小学校の頃には、体育館に大きな笹が立てられ、そこに願い事を認めた短冊を吊るしたのを覚えている。
それ以来、年中行事としては自分が参加することなどないまま過ごしてきた。

今夜は仕事で残業なので、日野君を送ることはできなかったが彼女は徒歩で先に帰宅した。


夜闇の中、自宅に帰る前に立ち寄った大型スーパーのレジ付近にある短冊を、暇潰しがてらに読んでみた。
「横浜DeNAがゆうしょうしますように」
おやおや、まるで金澤さんの願い事のようだ。
困難で神頼みをしないとならない目標だと言えば、彼は実際優勝したことはあるんだと怒るだろう。
「サッカーせんしゅになってワールドカップでゆうしょう」
……これはまた遠大な望みだ、彼に幸いあれ。

「バレエが上手になりたい」
「今度の空手の試合で目指せ優勝」
「もっと本がたくさん欲しい」
「弟か妹が欲しい」
「K学院に合格しますように」
……こちらは現実的で、しかもそれぞれに切実な願いだ。
願い主たちの家庭の事情までもが透けて見えそうなリアリティを感じる。

笹の葉や他の短冊の間から、ひっそりと覗いたピンクの短冊に私の目が留まった。

「次のコンクールで賞を獲れますように。A・Kがもっと優しくなるように。K・H」

――見覚えのある筆跡に、そして思い当たる節のある願い事。
彼女の好きなピンク色の短冊に書かれた願いのうち、前半はいいとして後半はどうなのか。
学院から少し離れ、彼女の家の方向と真逆にある店だから、わからないとでも思ったのだろうか。
別に私は、いつでも紀○国屋や成城○井だけで買い物をしている訳でもないと言うのに。
イニシャルと中身だけでもよくわかるその願望とやらを叶えてやろうかと思い立つ。

家に帰り着き、出来合いの惣菜もので夕餉を済ますと、おもむろに彼女の携帯に電話をかけてみた。

『はい』
「ああ、私だよ。A・Kだ。私は優しくはないかね、K・H君?」
彼女は黙ってしまった。
『……何のことだか、理事長のおっしゃる意味がよくわかりませんが……酔ってらっしゃいます?』
「ほう、とぼけるのも上手になったね。知っているんだよ。君と一回寄ったことのあるYスーパーでピンクの短冊を読ませてもらったよ。次回の受賞は、君ならできるだろう。信じているよ、頑張ってくれたまえ」

私の言葉に、受話部の向こうで彼女が沈黙したままでいる。
『……はい。でも、それは今度、ちゃんと顔を見て伝えてくださいね』
「了解したよ。で、どうかね。今度は始まる前に抱きしめてキスでもしてあげればいいのかな?」
からかいの調子で言葉をかけると、彼女は口ごもっていた。
『そんなことされたら、却って混乱しちゃいます……第一、伴奏の森さんだっているのに』

「……今夜は曇っていて、年に一度の逢瀬を楽しむ織姫と彦星の姿は見えないな」
『なんか意外です、理事長がそんなことを言うなんて。非科学的だとでも言いそうな感じなのに』
日野君の声が怪訝そうにやや顰められるが、それほど意外なのだろうか。

「三十路を過ぎて、妖精さんにつきまとわれている時点でお察しだよ。遥か彼方の人智の及ばぬものに願望をかける、未来を願うという気持ちは太古の昔から連綿と続く、人間の自然な感情なのだろうね。……深遠な宇宙の神秘に、それにまつわる神話にロマンを感じるというのも悪くはないものだよ」

『そういえば、理事長の願い事ってなんですか?』
不意に突拍子もない事を訊かれてしまった。
少しの間考えてみる。
「経営の安定化と、学院のレベルアップといったところかな」
『それじゃあ、理事長としての経営目標じゃないですか。何かないんですか、吉羅暁彦個人としての願望は?』
いつになく突っ込んでくる日野君の舌鋒に苦笑しつつ、私は答えた。
「そうだな。もう少しアルジェントには悪ふざけを抑えてもらいたいね。それくらいかな」

『――もういいです。訊いた私が馬鹿でした……理事長こそ、悪ふざけが過ぎます。おやすみなさい』
憤然とした口調に変わってしまい、今にも通話を切りそうな彼女を引き留める。
「切るのは待ってくれたまえ。もう少し、君とこうして話していたい。そして明日、何か気の休まるような曲を奏でてもらえないか」
素直な気持ちを語ったつもりだが、彼女は少しの間沈黙している。
『……はい、わかりました。どんな曲がいいですか?』
「そうだな、ドビュッシーの夢と、月の光。それを頼むよ」

電話を切った後、不意に空を眺めたくなってカーテンを開けた。

雨の止み間、曇の切れ目から柔らかな月光が時折覗いてくるのを見、何故だか安堵した気分になった。

――遥かな空間を隔てても一瞬で繋がれる、携帯電話というのも悪くはないな。
密やかに、誰にも邪魔される事なく時間を分かち持つ。
彼女は織女というよりも、音楽を紡ぐ……差し詰め弁才天か。
琵琶をヴァイオリンに替えればそうなる。
人の心を揺すぶる音を奏でる稀有な少女の願望は、近日中に叶うことになるだろうか――

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プロフィール
HN:
yukapi
性別:
女性
職業:
イラストレーターみたいなもの 自営
趣味:
読書。絵を描くこと、文章を書くこと。
自己紹介:





なんだかいろいろと絵や漫画を執筆中。…吉羅理事長勝手ノベライズ+捏造小説他公開中.理事長ゆず風呂漫画3完成して一応完結しましたw





100万人の~をベースに現在の時系列で勝手ノベライズ&完全空想エロありエピソードを書いています。時に微エロ・ハードエロありですのでご注意を!







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