「――へえ。こりゃまた偶然だな」
僕を見てにやにや笑っている金澤先輩の表情に不穏なものを感じ、僕は黙礼してその場を立ち去ろうとした。
「おいちょっと。待てよ」
僕は呼び止めようとする彼の声を黙殺し、彼の脇を素早くすり抜けることにした。
「落としもんだぞ?――なになに。吉羅暁彦様へ――」
金澤先輩が何やら拾い上げる動作をしているのを振り返って確認すると、先程僕が捨てようとしていた淡いピンクの封筒が目に留まった。
「それは、もう必要ないので。先輩、焼却炉に入れてくれませんか?」
僕がそう言うと彼は目を剥いていた。
「はあ?これ、察するにラブレターじゃねえのか?それをなんだ、事もあろうに焼き捨てるつもりだったってのかよ」
「もう中は読みましたし。用は済んでますから」
「おいおい、何考えてんだかよ。勿体ねえなあ。俺だったらこーんな可愛い封筒の、可愛い字のラブレターなんて、捨てるわけねえよ。大事にしまっとくね。なんつーの?ほれ、青春の記念品として……」
僕は彼の言い分に、思わず笑ってしまった。
これはまた随分とアナクロな言い回しだ。
「中身は見てねーから安心しろよ。どうしても捨てるってんならよ、神社へのお焚き上げにでも出せよ。こんなゴミと一緒に燃やすなんてことしたら、罰が当たるぞ?」
「お焚き上げ……?」
僕が首を捻っていると、金澤先輩は驚いたように言ってきた。
「知らねーの?神社とかお寺さんで、人形供養とか、要らなくなったお守りとか焼いてるのテレビとかニュースで見たことねえか?ああいうのに頼んだ方がいいと思うがなあ。人の想いのこもったモンだからな、無碍に扱うとバチが当たるかもしれないぜ?」
金澤先輩は、そう言いながら僕にその封筒を押し付けてきた。
青春の記念品……か。
そんな受け取り方ができるのは、心に余裕があるからだろうか。
僕はそんな考え方には思い至れない。
こういうのが嬉しいかと問われれば、嬉しさ一割程度、残り九割方は困惑と躊躇と、面倒だという気持ちが占めている。
「あっ、ちょっと待ってください。このこと、姉さん、いや他の人には――」
「別に言いやしねえよ」
金澤先輩は僕の肩を軽く叩いて、横を通り過ぎて行った。
「入学早々ラブレター攻勢ねえ。羨ましいねえ、モテモテ君は。けどお前さん、可愛い顔してる割に薄情なのな」
「そんな――」
僕が彼に反論しようとしたら、別な生徒らがゴミ捨てにやって来た。
音楽科の三年生だろう、金澤先輩や姉と同じ青いリボンやタイをしている。
「あれ、金澤君じゃない。だめよ、一年生をいじめちゃ」
「いじめてなんていねーよ。こいつ、美夜の弟の暁彦君だぜ?」
「えーっ、吉羅さんの弟さんなの?」
「うわ、すっごい美少年!かわい~い」
「お姉さんと似てるよね。一年生なの?」
「そういや入学式で、新入生代表してたよね。すご~い、入試でトップだったんだ」
僕は、いきなり華やかな喧しい騒ぎに巻き込まれてしまった。
僕を囲むようにしてきた三年生の女生徒たちが、矢継ぎ早に僕に質問してきたりして、僕はただただ困惑していた。
僕が目を白黒させているうちに、金澤先輩を含む一行は校舎内に向かって去って行った。
なんだったんだ……
その場に残された僕は一人唖然としていた。
でも、僕が手紙を焼き捨てようとしていたのを見て、金澤先輩は取り立てて強く非難してきたわけじゃない。
お焚き上げに出せとか、どこか間の抜けたアドバイスは言ってきたが。
ほんとは、そんなに嫌な奴でもないのかもしれない。
第一印象から続く出来事の間が悪かっただけの話で。
僕はとぼとぼと、一人家路についた。
……それにしても、彼と遭遇する時は本当にタイミングが悪いとしか言いようがない。
僕が他人に見せたくない場面にばかり、何故か運悪く出くわす羽目になっている。
姉とはどれくらい親しいのだろうか。
「美夜」なんて呼び捨てにするくらいだから、てっきり姉の恋人気取りでいるのかと思っていた。
姉は彼氏なんかじゃないと言っていたが、金澤先輩の方はどうなのだろう。
鈍感なところのある姉なので、金澤先輩が好意を示していたとしても気付いていない……とか。
あるいは、その気のない素振りで好意を躱しているとか。
身内の恋愛沙汰だなんて、想像するだけでなんだかすごくむず痒いような気持ちになってくる。
それよりも、僕宛に来た手紙の数々も……
壇上に立った僕の姿を見て一目惚れした、だとか。
かっこよかったと誉めそやされるのは、正直悪い気はしない。
だが、顔も名前も知らない女の子とコンタクトを取る気にはなれない。
これから高校生活を送って、その毎日の中で自然と接触が増えていき、次第に好感を持つという流れならともかくだ。
嘘で固めた美辞麗句を吐いた僕の姿を見て好きになられたというのは、僕はまるで酷い偽善者みたいで、嫌になる。
早いとこ幻滅してもらった方がマシなくらいだ……
僕は、姉の帰宅を待ち構えて開口一番で疑問をぶつけた。
姉は驚きの表情を作ったが、次の瞬間笑い出した。
「やあね、そんなんじゃないわよ。クラスの中で比較的気が合うってだけの話で、付き合ってなんていないってば」
僕は少しばかり安堵しかけたが、思い直した。
「あの、金澤って先輩?僕のことからかいに来たんだよ。だからあんな奴、姉さんがどうしても好きだって言うんじゃなけりゃ……あんまり、親しくするのはどうかと思う」
僕は、姉が感じ取っていないだけで、実は金澤某から姉への好意があるんじゃないかと直感していた。
姉はお人好しで善人だから、ちょっと癖のある、腹に一物あるような輩の不届きな思惑に気付いてないんじゃないだろうか。
いや、気付けないのではないか。
僕は何か、割り切れないもやもやした想いが腹の奥底に淀んでいくような不快感を覚えていた。
まだ姉に話していなかった、それまでの概要をざっと説明してみた。
「え、何?暁彦が叔父さんと話しに行った時に金澤君とぶつかって?……で、彼がそれを詫びに来た、ってことなの?」
「違うよ!僕が新入生代表なんかになって、あんな思ってもない文を読み上げさせられたから。単純に興味が湧いたみたいだ。僕の顔が姉さんとそっくりだったから、すぐわかったなんて言ってさ。僕のことおちょくりに来たんだよ。ふざけてるよ、まったく」
シスコンだと言われて、更に図星かと追撃を受けた瞬間に、僕はついかっとなってしまって――
相手が僕より上背がある先輩じゃなければ、胸倉の一つも掴んで謝罪を迫っただろう。
だが、相手が相手なので僕は強い手段には出られなかった。
悔しさを胸に溜めたままこらえなければならなかった、のだが。
もしもあの時、僕が金澤某に掴みかかったりしていたとしたら。
入学式早々、事もあろうに新入生代表役を務めた(一応成績優秀な)生徒が喧嘩沙汰を起こしたと知れたら――それを想像して、僕はぞっとした。
そうなれば姉にも迷惑をかけてしまう。
向こうは三年生だからと自制に自制を重ねて、僕はその場を立ち去るしかなかったのだ。
僕を挑発する金澤某に、そこはかとない悪意が見え隠れしているのがわかる。
それは、姉と仲のいい僕を排除するという意図があるんじゃないだろうか。
自覚はあまりないが、僕と姉の仲のよさは珍しいものらしい。
僕と同年代の男連中は、異性の姉や妹なんかと暮らしていれば、まずは鬱陶しいという感想を持つものだそうだ。
中にはろくに顔も合わせず、口もきかないなんてのも聞いたことがある。
姉は僕より二歳年上で、一見しっかりしているように見える。
だが、世の中は善いことで溢れていると信じている人のいい姉を利用したり、都合のいいように扱う他人もいるのだ。
僕が守ってやらなくちゃと思えるようになってきたのは、僕の身長が姉を越した前後からだと思う。
これは一種の庇護欲であって、決して異常なまでの接近ではない。
僕はそう考えていた。
「暁彦、考えすぎじゃない?金澤君が、あなたに悪感情を持つ理由なんて考えられないわよ」
「――とにかく。姉さんがあいつと関わるのを僕は止める権利ないにしても、僕は好きになれないよ。それだけ、心に留めといて」
駄目だ、これ以上話したとしても平行線だ。
いきなり現れたと思ったら、馴れ馴れしく姉さんを呼び捨てにした上に、僕をまるで値踏みするようにしていた態度を許せない。
――シスコン?
どうでもいい、そんなの。
他人がどう思おうが勝手にすればいいんだ。
どうせろくに関わりも持たない野次馬が、面白おかしく醜聞仕立てにして楽しんでるだけなんだから。
くだらない。
音楽以外の事柄に煩わされたくない。
せっかく音楽学校に入ったんだ、おとなしく音楽に邁進させて欲しい。
だが、僕のそんな切実な願いをよそに、翌日から僕の身辺が騒がしくなってしまった。
昇降口だけで靴箱のないこの学校、僕の机に手紙が数通入っていた。
これが嬉しい手紙だけならばいいのだが、大抵は悪意を書き散らしたものまでセットになってくる。
そういうものなのだ。
やっかみか嫉妬か、男が書いたと思われる悪筆での汚らしい罵詈雑言だとか。
正面きって喧嘩を売ってこられる方が、まだマシだ。
男の嫉妬というのは、実は一番タチが悪いんじゃないだろうか……
どこの誰とも知らない女の子の自己紹介から始まって、よかったら電話をくれとか、会って欲しいとか。
ご丁寧に連絡先が添えられているものの、ラブレターを貰うことで本当に嬉しかったのは、小学生の中学年までの話だ。
自分の想像した通りに動かない、優しくない僕に焦れた少女の態度が見る間に豹変したり、まるで自分が被害者であるように泣くことで僕を責めたり。
ろくに顔も名前も知らない相手からのアプローチは、無視するに限る。
直接の対面を求めてきたにしても同じだ。
嫌がらせ目的で呼び出された経験もあるから、迂闊に動かない方がいい。
これは、僕が今までに体感して得た教訓だ。
僕はうんざりした気持ちで、これらの手紙の束をどう処分したものかと思案に暮れていた。
家にわざわざ持ち帰るのも馬鹿馬鹿しい。
かといって、そこらのゴミ箱に捨てていくのもよくはなさそうだ。
僕は、掃除の時に行くゴミ捨て場の近くに焼却炉があったのを思い出した。
ちょうど、今週は僕が掃除当番でもある。
ポケットの中などにさりげなく隠した手紙をゴミの中に混ぜて、紙ゴミを焼却中の炉の中に放り投げた。
ほっとして後ろを振り向くと、ゴミ箱を抱えた金澤先輩が佇んでいるではないか――