ある日、香穂子がいつものように森の広場でヴァイオリンの練習をしていると、普通科の友人が声をかけてきた。
「香穂、頑張ってるね!私、音楽のことは正直よくわからないけど前より素敵になってると思うよ」
褒め言葉に嬉しくなった香穂子は、微笑んで「ありがとう」と返した。
「……でもさ、もうすぐ試験だよ?ヴァイオリンの練習ばかりだと試験勉強が疎かにならないかな?熱心なのはいいことだけどさ。赤点取っちゃったらまずいし、少しヴァイオリンの練習を休んだ方がいいんじゃないのかな?」
言われてみれば、そうかもしれない。
ここのところ弾くのが楽しくてヴァイオリン練習ばかりをしているが、そろそろやりすぎじゃないかとは感じていたのだ。
試験勉強からの逃避を兼ねて、楽しいヴァイオリンに身を入れすぎている。
「うん、そうしようかと思ってる。ここんとこちょっと演奏一辺倒になってた気もするの」
「――でしょ?楽器の演奏もいいけれど、勉強も大事だよ」
そこへ、音楽科の制服を着た男子生徒が通りがかった。
「ちょっと待った!日野さんは音楽祭のメンバーなんだぞ?音楽科の生徒に比べれば、たいしたことのない音色しか出せないんだ。もっとヴァイオリンの技術を研鑽してもらわないと納得がいかない」
男子生徒は憤った様子で一気にまくし立てた。
「大体、試験くらいでヴァイオリン練習を休むなんて、本気で打ち込んでない証拠だ」
「――ちょっと!それはさすがに言いすぎじゃないの?」
友人がムッとして言い返すが、彼も負けてはいない。
「普通科の生徒には、音楽祭の参加資格を奪われた気持ちはわからないよ!日野さんが普通科から選ばれたせいで、出場できる枠は一つ奪われたんだ。これでもし下手な演奏なんかされた日には、僕ら選抜から漏れた音楽科生徒の立場がない」
「だからってそんな、押し付けるようなこと――!」
二人の生徒の間に険悪な空気が漲っていくのを、香穂子はどうやって止めたらいいのか途方に暮れていた。
そこへ、聞き覚えのある低い落ち着いた声がかかる。
「何を言い争っているのかな?」
「吉羅理事長……!」
出し抜けに現れた学院理事長の姿を認めて、音楽科男子の声と表情に驚きが満ちる。
ちょうどいいところで来てくれた吉羅に仲裁に入って欲しい。
香穂子は、事のあらましを吉羅に説明した。
「……なるほど。確かにどちらの言い分にも理はあるな。音楽科の生徒としては、音楽祭の代表者には完璧な演奏を期待するだろう」
「当然ですよ。だったら――」
「けれど、君は自分が音楽祭に参加できない不満を彼女にぶつけていないと言えるだろうか?」
「……うっ……」
吉羅の指摘に、音楽科男子が口ごもる。
どうやら図星だったようだ。
次に吉羅は香穂子の友人の方を向いた。
「そして、君の意見だが、私ももっともだと思う。ヴァイオリンの練習ばかりで勉強がおろそかになるのは望ましいことではない」
「ですよね!だったら――」
「しかし、ヴァイオリンの練習は一日休むと感覚を取り戻すのに三日かかると言われている。毎日のたゆまぬ努力は必要だ。まして日野君は音楽祭の選抜メンバーなのだからね。その自覚があるのなら、なおさら練習をおろそかにはできないだろう」
「そ、それはそうですね……」
「どちらの言い分も正しい。価値観が異なるだけだ。だが、自分の価値観を振りかざして、相手に強要するようなことがあってはならない。個人の価値観は尊重されるべきものだと私は思っているが、……君たちはどうなのかね?」
吉羅の、一分の隙もない論理的な言葉に説得されて、音楽科の男子はうなだれていた。
香穂子の友人も同様に、吉羅に頭を下げた。
「はい……」
「わかりました、すみません」
「結構、双方納得いったようだね。それでは、私はこれで」
吉羅は喧嘩を丸く収めると、その場を去って行った――
翌日、香穂子が廊下を歩いていると、男性教師と話している吉羅を見かけた。
「音楽祭のメンバーは、日野さんから変更した方がいいのではないでしょうか」
「何故、そう思われたのです?」
「昨日、彼女が原因で普通科の生徒と音楽科の生徒が言い争っていたと聞きました」
吉羅は黙っている。
それを仲裁したのは自分だと言わないのは何故だろう。
「それに、日野さんは技術的にも未熟です。かといって練習に打ち込んでいては学業の成績を落としてしまうでしょう。ですから――」
話を続けようとする男性教師を制し、吉羅が口を開いた。
「――わかりました。では、私が責任を持って彼女を成長させましょう」
香穂子は自分の処遇がどうなるのか気がかりで立ち聞きしていたところ、思いっきり吉羅と視線が合ってしまった……
「おや、噂をすればなんとやらだね。日野君、というわけでこれから暫く私が君の面倒を見る。ヴァイオリンも試験勉強も、他の人間に文句を言わせないようにするから、そのつもりでいるように」
「り、理事長が、私を……?」
「――日野さん、理事長がこう仰っているのだから、学業も演奏も頑張るようにね」
男性教師はそう言って職員室の方へと向かった。
香穂子は詳しい話を吉羅に聞きたかったが、もうじき昼休みが終わる頃合だ。
「今は込み入った話をしている暇はない。放課後理事長室に来るように」と言い置かれて、立ち去られてしまった。
突然の急展開に混乱しつつ、反面楽しみでもある。
自分の窮地を鮮やかに救ってくれた吉羅が、なんと勉強と演奏までも指導してくれると言うのだから、期待しないではいられない。
自分を成長させてくれると吉羅は言っていた。
それこそ願ってもない。
吉羅が指導をしてくれるのなら頑張るという気持ちになれる。
香穂子は弾む胸を押さえながら、放課後になるのを待ち受けていた……
(第二段階に続く)