「――へえ。こりゃまた偶然だな」
僕を見てにやにや笑っている金澤先輩の表情に不穏なものを感じ、僕は黙礼してその場を立ち去ろうとした。
「おいちょっと。待てよ」
僕は呼び止めようとする彼の声を黙殺し、彼の脇を素早くすり抜けることにした。
「落としもんだぞ?――なになに。吉羅暁彦様へ――」
金澤先輩が何やら拾い上げる動作をしているのを振り返って確認すると、先程僕が捨てようとしていた淡いピンクの封筒が目に留まった。
「それは、もう必要ないので。先輩、焼却炉に入れてくれませんか?」
僕がそう言うと彼は目を剥いていた。
「はあ?これ、察するにラブレターじゃねえのか?それをなんだ、事もあろうに焼き捨てるつもりだったってのかよ」
「もう中は読みましたし。用は済んでますから」
「おいおい、何考えてんだかよ。勿体ねえなあ。俺だったらこーんな可愛い封筒の、可愛い字のラブレターなんて、捨てるわけねえよ。大事にしまっとくね。なんつーの?ほれ、青春の記念品として……」
僕は彼の言い分に、思わず笑ってしまった。
これはまた随分とアナクロな言い回しだ。
「中身は見てねーから安心しろよ。どうしても捨てるってんならよ、神社へのお焚き上げにでも出せよ。こんなゴミと一緒に燃やすなんてことしたら、罰が当たるぞ?」
「お焚き上げ……?」
僕が首を捻っていると、金澤先輩は驚いたように言ってきた。
「知らねーの?神社とかお寺さんで、人形供養とか、要らなくなったお守りとか焼いてるのテレビとかニュースで見たことねえか?ああいうのに頼んだ方がいいと思うがなあ。人の想いのこもったモンだからな、無碍に扱うとバチが当たるかもしれないぜ?」
金澤先輩は、そう言いながら僕にその封筒を押し付けてきた。
青春の記念品……か。
そんな受け取り方ができるのは、心に余裕があるからだろうか。
僕はそんな考え方には思い至れない。
こういうのが嬉しいかと問われれば、嬉しさ一割程度、残り九割方は困惑と躊躇と、面倒だという気持ちが占めている。
「あっ、ちょっと待ってください。このこと、姉さん、いや他の人には――」
「別に言いやしねえよ」
金澤先輩は僕の肩を軽く叩いて、横を通り過ぎて行った。
「入学早々ラブレター攻勢ねえ。羨ましいねえ、モテモテ君は。けどお前さん、可愛い顔してる割に薄情なのな」
「そんな――」
僕が彼に反論しようとしたら、別な生徒らがゴミ捨てにやって来た。
音楽科の三年生だろう、金澤先輩や姉と同じ青いリボンやタイをしている。
「あれ、金澤君じゃない。だめよ、一年生をいじめちゃ」
「いじめてなんていねーよ。こいつ、美夜の弟の暁彦君だぜ?」
「えーっ、吉羅さんの弟さんなの?」
「うわ、すっごい美少年!かわい~い」
「お姉さんと似てるよね。一年生なの?」
「そういや入学式で、新入生代表してたよね。すご~い、入試でトップだったんだ」
僕は、いきなり華やかな喧しい騒ぎに巻き込まれてしまった。
僕を囲むようにしてきた三年生の女生徒たちが、矢継ぎ早に僕に質問してきたりして、僕はただただ困惑していた。
僕が目を白黒させているうちに、金澤先輩を含む一行は校舎内に向かって去って行った。
なんだったんだ……
その場に残された僕は一人唖然としていた。
でも、僕が手紙を焼き捨てようとしていたのを見て、金澤先輩は取り立てて強く非難してきたわけじゃない。
お焚き上げに出せとか、どこか間の抜けたアドバイスは言ってきたが。
ほんとは、そんなに嫌な奴でもないのかもしれない。
第一印象から続く出来事の間が悪かっただけの話で。
僕はとぼとぼと、一人家路についた。
……それにしても、彼と遭遇する時は本当にタイミングが悪いとしか言いようがない。
僕が他人に見せたくない場面にばかり、何故か運悪く出くわす羽目になっている。
姉とはどれくらい親しいのだろうか。
「美夜」なんて呼び捨てにするくらいだから、てっきり姉の恋人気取りでいるのかと思っていた。
姉は彼氏なんかじゃないと言っていたが、金澤先輩の方はどうなのだろう。
鈍感なところのある姉なので、金澤先輩が好意を示していたとしても気付いていない……とか。
あるいは、その気のない素振りで好意を躱しているとか。
身内の恋愛沙汰だなんて、想像するだけでなんだかすごくむず痒いような気持ちになってくる。
それよりも、僕宛に来た手紙の数々も……
壇上に立った僕の姿を見て一目惚れした、だとか。
かっこよかったと誉めそやされるのは、正直悪い気はしない。
だが、顔も名前も知らない女の子とコンタクトを取る気にはなれない。
これから高校生活を送って、その毎日の中で自然と接触が増えていき、次第に好感を持つという流れならともかくだ。
嘘で固めた美辞麗句を吐いた僕の姿を見て好きになられたというのは、僕はまるで酷い偽善者みたいで、嫌になる。
早いとこ幻滅してもらった方がマシなくらいだ……
僕は、姉の帰宅を待ち構えて開口一番で疑問をぶつけた。
姉は驚きの表情を作ったが、次の瞬間笑い出した。
「やあね、そんなんじゃないわよ。クラスの中で比較的気が合うってだけの話で、付き合ってなんていないってば」
僕は少しばかり安堵しかけたが、思い直した。
「あの、金澤って先輩?僕のことからかいに来たんだよ。だからあんな奴、姉さんがどうしても好きだって言うんじゃなけりゃ……あんまり、親しくするのはどうかと思う」
僕は、姉が感じ取っていないだけで、実は金澤某から姉への好意があるんじゃないかと直感していた。
姉はお人好しで善人だから、ちょっと癖のある、腹に一物あるような輩の不届きな思惑に気付いてないんじゃないだろうか。
いや、気付けないのではないか。
僕は何か、割り切れないもやもやした想いが腹の奥底に淀んでいくような不快感を覚えていた。
まだ姉に話していなかった、それまでの概要をざっと説明してみた。
「え、何?暁彦が叔父さんと話しに行った時に金澤君とぶつかって?……で、彼がそれを詫びに来た、ってことなの?」
「違うよ!僕が新入生代表なんかになって、あんな思ってもない文を読み上げさせられたから。単純に興味が湧いたみたいだ。僕の顔が姉さんとそっくりだったから、すぐわかったなんて言ってさ。僕のことおちょくりに来たんだよ。ふざけてるよ、まったく」
シスコンだと言われて、更に図星かと追撃を受けた瞬間に、僕はついかっとなってしまって――
相手が僕より上背がある先輩じゃなければ、胸倉の一つも掴んで謝罪を迫っただろう。
だが、相手が相手なので僕は強い手段には出られなかった。
悔しさを胸に溜めたままこらえなければならなかった、のだが。
もしもあの時、僕が金澤某に掴みかかったりしていたとしたら。
入学式早々、事もあろうに新入生代表役を務めた(一応成績優秀な)生徒が喧嘩沙汰を起こしたと知れたら――それを想像して、僕はぞっとした。
そうなれば姉にも迷惑をかけてしまう。
向こうは三年生だからと自制に自制を重ねて、僕はその場を立ち去るしかなかったのだ。
僕を挑発する金澤某に、そこはかとない悪意が見え隠れしているのがわかる。
それは、姉と仲のいい僕を排除するという意図があるんじゃないだろうか。
自覚はあまりないが、僕と姉の仲のよさは珍しいものらしい。
僕と同年代の男連中は、異性の姉や妹なんかと暮らしていれば、まずは鬱陶しいという感想を持つものだそうだ。
中にはろくに顔も合わせず、口もきかないなんてのも聞いたことがある。
姉は僕より二歳年上で、一見しっかりしているように見える。
だが、世の中は善いことで溢れていると信じている人のいい姉を利用したり、都合のいいように扱う他人もいるのだ。
僕が守ってやらなくちゃと思えるようになってきたのは、僕の身長が姉を越した前後からだと思う。
これは一種の庇護欲であって、決して異常なまでの接近ではない。
僕はそう考えていた。
「暁彦、考えすぎじゃない?金澤君が、あなたに悪感情を持つ理由なんて考えられないわよ」
「――とにかく。姉さんがあいつと関わるのを僕は止める権利ないにしても、僕は好きになれないよ。それだけ、心に留めといて」
駄目だ、これ以上話したとしても平行線だ。
いきなり現れたと思ったら、馴れ馴れしく姉さんを呼び捨てにした上に、僕をまるで値踏みするようにしていた態度を許せない。
――シスコン?
どうでもいい、そんなの。
他人がどう思おうが勝手にすればいいんだ。
どうせろくに関わりも持たない野次馬が、面白おかしく醜聞仕立てにして楽しんでるだけなんだから。
くだらない。
音楽以外の事柄に煩わされたくない。
せっかく音楽学校に入ったんだ、おとなしく音楽に邁進させて欲しい。
だが、僕のそんな切実な願いをよそに、翌日から僕の身辺が騒がしくなってしまった。
昇降口だけで靴箱のないこの学校、僕の机に手紙が数通入っていた。
これが嬉しい手紙だけならばいいのだが、大抵は悪意を書き散らしたものまでセットになってくる。
そういうものなのだ。
やっかみか嫉妬か、男が書いたと思われる悪筆での汚らしい罵詈雑言だとか。
正面きって喧嘩を売ってこられる方が、まだマシだ。
男の嫉妬というのは、実は一番タチが悪いんじゃないだろうか……
どこの誰とも知らない女の子の自己紹介から始まって、よかったら電話をくれとか、会って欲しいとか。
ご丁寧に連絡先が添えられているものの、ラブレターを貰うことで本当に嬉しかったのは、小学生の中学年までの話だ。
自分の想像した通りに動かない、優しくない僕に焦れた少女の態度が見る間に豹変したり、まるで自分が被害者であるように泣くことで僕を責めたり。
ろくに顔も名前も知らない相手からのアプローチは、無視するに限る。
直接の対面を求めてきたにしても同じだ。
嫌がらせ目的で呼び出された経験もあるから、迂闊に動かない方がいい。
これは、僕が今までに体感して得た教訓だ。
僕はうんざりした気持ちで、これらの手紙の束をどう処分したものかと思案に暮れていた。
家にわざわざ持ち帰るのも馬鹿馬鹿しい。
かといって、そこらのゴミ箱に捨てていくのもよくはなさそうだ。
僕は、掃除の時に行くゴミ捨て場の近くに焼却炉があったのを思い出した。
ちょうど、今週は僕が掃除当番でもある。
ポケットの中などにさりげなく隠した手紙をゴミの中に混ぜて、紙ゴミを焼却中の炉の中に放り投げた。
ほっとして後ろを振り向くと、ゴミ箱を抱えた金澤先輩が佇んでいるではないか――
僕はなんの因果やら、入試得点で一位を獲っていまい、新入生代表として挨拶文を読み上げる役目を仰せつかってしまった。
割合と高得点だと自覚はしていたが、まさか首席になってしまうなどとは。
僕は、基本的にあまり目立ちたくないと思っている。
しかし、これでは否応なく注目を浴びてしまうのが嫌だった。
書いてある文を読み上げれば済む。
それだけのことだ。
ここで即興でソロ演奏をしろというのでもない。
僕はあがるタチではない。
いざ舞台となればそれなりに腹を括るし、あとは出たとこ勝負だという度胸は、これまでのコンクール等の場数を踏んだ経験がものを言う。
「新入生代表。吉羅暁彦――」
司会の教師の声が僕を呼び、僕は講堂の壇上に上がった。
「えー、僕たち新入生は、この栄えある日に星奏学院への入学を果たし……」
白々しい言葉の羅列。
ここに書いてある文言が僕の本音で真実だなんて、誰が思うものか。
表面だけ美辞麗句を並べ立てることなんて造作も無い。
伊達に、これまでに山ほど本を読んでいない。
僕はそんな醒めた気持ちで新入生代表の言葉を読み上げ、壇上から降りた。
ざわつく講堂内。
音楽科なのに全体の首席を獲ってしまったのが、話題に上っているらしい。
「あの子可愛い」とか「かっこいい」とか、そんな僕を誉めそやす女子生徒の声も聞こえてくる。
教室に戻り、最初は出席番号順に並んだ席につかされる。
一言ずつの自己紹介をするという決まりきった教師からの要請に、僕は得意教科と趣味は読書と言って座った。
「ね、すごいね。吉羅君て言うの?かっこいいのに頭もいいなんて、すごいって」
僕の席近くになった複数の女子生徒から、早速声をかけられた。
「……大したことないよ。偶然だよ」
「ね、クラブ何にするの?やっぱり吹奏楽か何か?」
「まだわからない。もしかして帰宅部かもしれないし」
まだ話を続けたそうな女子生徒を遮り、僕は席を立った。
「この後、受け持ちの先生に挨拶をしてこなきゃ。君らもそうだろ?」
ヴァイオリン専攻の僕は、僕の指導を受け持つ教師との面談がある。
クラスは便宜上生徒が寄せ集められているだけで、教科単位制の高等部の中でも、音楽科の授業は更に専攻科によって細かく区分けされている。
早い話、レッスンに集中したい環境でいられるはず、なのだが――
僕の受け持ちとなる先生と挨拶がてらに軽く雑談をして、それから一曲弾いてみる流れになった。
実技の上でもトップクラスだとか誉めそやされたが、どうもこそばゆい。
トップクラス……か。
事実上のナンバーワンになりたい。
一年の中での一番を目指す。
それが僕の中での目標になった。
そんなことを先生に話すと「それくらいの勝気なくらいがいい」と、これまた僕を後押ししてくれる発言があった。
教師との相性というものがあるのは間違いないので、僕はほっとした。
僕はアクセントが強いと指摘を受けていて、それを改善するようにと言われていた。
僕は練習室を出て、自分の教室に戻ろうとした。
すると、入り口の前に見覚えのある人物が佇んでいるではないか。
忘れようったって忘れられない、この前、僕にぶつかってきた大男がそこにいた。
「――よう」
そいつは軽く手を上げて、まるで既知の知人のように振舞っている。
「おまえ、美夜の弟なんだってな?道理で、そっくりな顔してると思ったよ」
そいつは、不敵な笑いを浮かべて僕を見下ろしている。
まだ身長が170に満たない僕より十センチ以上背が高いだろう。
「あなたは一体誰なんですか?――自分は名乗りもしないで、一方的に僕のことを詮索しようなんてのは、正直愉快じゃないですね」
「ああ、自己紹介してなかったっけ?俺、金澤。金澤紘人。お前の姉ちゃん、美夜と同じクラスなんだ。つまり三年生ってわけだよ」
にやにやと、人を小ばかにするような視線を向けているそいつは金澤と名乗った。
人の姉の名前を、ずいぶんと気安く呼び捨てにしてくれるものだ。
僕は内心不快感でいっぱいだったが、敢えて言わずにおいた。
「ふーん……」
僕を無遠慮に眺める視線は、明らかに値踏みをしているに違いない。
僕がどのくらいの器量なのか、どこをどう突つけばどう反応するのかを窺っているんだ。
「で、金澤先輩は、わざわざ僕に挨拶しに来てくださったわけですか?」
「ああ。お前さんも人が悪いよな。あん時、俺に名乗ってくれてりゃよかったのに。どっかで見た顔だと思ったのは、そうだなあ。姉ちゃんの美夜と瓜二つってやつだからか」
「――あの」
僕はとうとう腹に据えかねてきた。
「さっきから、馴れ馴れしく姉を呼び捨ててくれてますが。あなたはなんですか?姉の恋人か何か?」
そいつは一瞬きょとんとした、呆けたような顔つきになった後に、またあの含むような笑みを浮かべた。
「そうだとしたら?――妬いてんのか、暁彦ちゃんは?」
僕は、頭の奥がかっと灼熱するような感覚に襲われた。
「なんだ、図星か?シスコンってやつかね、お前さん?ったく、駄目だぞ?高一にもなって姉ちゃんにべったりじゃ、そのうち呆れ――」
僕の顔の方に差し出してくるそいつの手を、怒りのあまりに振り払った。
「あんたには関係ない」
僕は憤然として、鞄を持って教室から出た。
さっきまでの気分が台無しだ。
こんなふざけた男と付き合ってるのなら、姉の目は曇っているとしか思えない。
僕をからかい、馬鹿にするためにわざわざ教室にまで足を運んだのだとしたら、人を見下すのにも程がある。
僕は頭に血が昇った状態を不快に感じつつ家路についた。
僕は叔父との対面を終えて校長室から出た。
僕が作成した文例は無事に叔父の許可が下りた。
後は本番で勝手に内容を変更しないこと(時々、そういったへそ曲がりな生徒が出るらしい)と念を押された。
あまり長い内容ではなく、といって短すぎないようにとの講釈を受けた。
僕が入試で成績一位だったというのは事実だったらしい。
入試の答案を見せてもらって確認したいと言った僕に、叔父は快諾し職員室から僕の答案用紙を持ってこさせたのだ。
平均点や、二位以下の生徒の点数等も見せられては疑いようがない。
勿論、それらの氏名等の個人情報を伏せてはあったが……。
入試にも「コネは通用しない」と姉から言われたのに、面倒な役柄を避けたいばかりに、ここぞと叔父の権威を利用してしまった自分が嫌で、忸怩たる気持ちになった。
もうじき入学が近いのだし、僕は一応真新しい制服を着用してここへ来た。
姉は春休み中でも自主練習に励むために音楽棟に通っている。
入試に関するあれこれで、校内見学の経験はあったが、僕は自分ひとりであちこちを巡って見物してみたくなった。
音楽科のある音楽棟。
普通科とは渡り廊下で繋がれてはいるものの、ほぼ完全な別世界だ。
制服からしてまるっきり別物だし、同じ敷地内に普通科棟があるというだけの話だ。
体育祭や文化祭等の大きな行事でもなければ、滅多に両者の交流はないと言われている。
そもそも音楽科の生徒は、体育祭も「生徒の自主性に任せる」という名目での自由参加だ。
それはそうだろう、ありとあらゆる楽器を操る生徒たちなのだ、もし万が一体育祭に出て、怪我でもしては本来の学業に支障が出る。
それでは本末転倒だ……
それにしても、この建築物は本当に凝っていると感心させられる。
世間にありふれた無個性な学校とは一線を隔している……
僕の曽祖父がここを創る時に、校内のかなりな細部に亘っても神経をゆき届かせたのだろう。
僕がぼんやりと考えながら廊下を歩いて角を曲がると、目の前に突如大男が現れた。
大声で、気持ちよさそうに「サンタルチア」なんか歌っている。
そいつは僕のことをろくに見もせず、上を向きつつまっすぐにこちらに向かって歩いてくるではないか。
「――痛っ」
僕はそいつを避けず、わざとぶつかった。
肩先だけ触れるつもりでいたのが、思いの他そいつの当たりが強かったせいで、僕は廊下に尻餅をついてしまった――
「うあ?……わりいわりい、ぶつかっちまったな」
その男は、僕に向かって手を差し出してきた。
僕は赤いタイだが、そいつは青いタイ……姉と同じ学年だ。
つまりは新三年生というわけだ。
僕はその手を無視し、立ち上がった。
「生憎ですが、男の手を握る趣味はありませんので」
そう言って服についただろう汚れを払うと、そいつは素っ頓狂な声をあげた。
「あのなあ。俺だってそんな趣味はねーよ。……見ない顔だな。今度の一年生か?」
「お察しの通りです」
「へえ……」
そいつは、不躾に僕の顔や体をじろじろと眺めているではないか。
言ってることとやってることが違うぞ、こいつ。
男に、いや僕に興味津々といった無遠慮な視線に不快感しかなかった。
「新入生ちゃんが、入学前になんの用事なんだ?」
「学校見学をしに来ただけですが。何かいけないんですか?」
まさか「僕は新入生代表に選ばれたので、入学式に読み上げるはずの草稿を確認しに来た」などと真正直に告げる馬鹿はいまい。
「いや、別にいけなかねーけどよ……どーもいちいち、突っかかってくるよなあ、お前さん」
どこか不服そうにしているその男が、僕よりも高い位置から見下ろしている。
突っかかるも何も、こいつの方が先に僕に当たっておきながら、ろくろく謝りもしないのだ。
僕は咄嗟の弾みで廊下に尻餅をついてしまって、とんだ恥ずかしい様を晒してしまった。
「人にぶつかっておいて、謝罪の言葉もないとは。いくら後輩に対してとはいえ、失礼なんじゃないんですか?――先輩?」
僕は挑発的な言葉を放ち、そいつの暢気そうな顔を見上げた。
「へ?俺、謝ったじゃねーかよ。わりいってよ」
「じゃあ、僕が出会いがしらにあなたに体当たりを食わせて転ばせたとしますね?そこで僕が『あっ、わりいわりい』と今のあなたのように軽く言って済ませようとしたら?あなた、それを許せますか?」
そいつは暫し考え込んでいるようで、渋面になってしまった。
「あー、はいはい。ぶつかってゴメンナサイ」
仕方なさそうに謝罪の言葉を口に出すそいつは、どこか陽気な一本抜けたような顔つきをしている。
わかればいいんだ。
いくら先輩だからって、後輩を転ばしておいてそのままというのは道理が通らない。
大体、僕の方が彼よりもずっと体の作りが小さいのだ。
僕は少しの満足感を得て、音楽棟から引き返す潮時と見て踵を返そうとした。
「あっ、ちょっと待てよおい」
「まだ何かご用でも?」
「いや……あのさ。どっかでお前の顔見た覚えがあるんだよな。でも、どこだっけ……どっかで会ってるような気が……」
僕は悪寒に襲われてしまった。
こいつ、まさか本当にそっちの趣味があって、僕を口説こうとしてるんじゃあるまいな?
そんな危機感に衝き動かされた僕は、その場から脱兎のごとく駆け出した。
「ちょっと!おい、お前――」
男のテノールの響きを無視し、僕は一目散に逃走した。
僕は校内から出て、乱れた息が静まるのを待った。
周囲をぐるりと見回して、警戒することも怠らない……さっきの大男がここまで追ってきてはいないのを確認する。
見も知らない女の子に突然告白されたりするのは何度もあったが、それに何よりも、中学生の頃に女の子と間違われてナンパと痴漢とに遭ったことがトラウマになっている。
僕を男と知った上で、男に迫られるのはこれが初めてだ。
本能的な恐怖しかない。
――まったく、今日はなんて日だ――
入学式の予行練習とやらがある来週まで、もうこの学校には近寄らないのが正解だ。
情けない話なので、姉にも言えやしないし、言いたくもない……
僕はそれまで読んでいた本を脇に置き、姉に向き直った。
「そう。暁彦が入試得点でトップだったんですってよ。すごいじゃない」
姉は嬉しそうにニコニコと、穏やかな笑みを浮かべて僕を見ている。
僕はと言うと――彼女とは対照的に、苦虫を噛み潰したような表情をしているだろう。
「で……それって、僕にあれか。なんか読み上げる役をやれってことだよね?勿論、文書は学校側で用意してくれるんだろうね?」
姉は笑いながら首を振った。
「は?僕が自分で考えろっての?」
「ううん。暁彦が一から作れって意味じゃなくて、これ。これを参考例にして、少しアレンジを加えて欲しいんですってよ」
姉は書類の束を僕に向かって差し出した。
薄いパンフレットなのだが、幾つも積み重なったそれは、過去五年ほどの新入生代表が読み上げた「入学の言葉」とやらだ。
それから、二冊ほどの小さな書籍も手渡された。
新入生代表文例集と題されているそれらを見て、僕は心底からげんなりした。
「もう決まりなのかよ……」
僕は不満を露わにして独りごちた。
「ごめんね。暁彦に直接頼んだら、あなた叔父さんと口喧嘩になっちゃいそうだから。それで……」
「で?だからって僕を迂回して、姉さんをクッションと伝書鳩代わりに使ったっての?……ふざけてるよ」
僕は吐き捨てるように言った。
「ねえ、暁彦がこういうの気が進まないのはわかるけど。でもね、なんと言ってもあなたは身内でしょう?素性も知らないような新一年の子に、いきなり頼み込むよりずっといいはずなのよ。叔父さんだって新年度で大変みたいなの。協力してあげてよ、ね」
姉が困ったように僕の顔をじっと見つめる。
……僕は、この優しいお人好しの姉の懇願に弱い。
とても弱い。
いつだって損得の勘定もせず、ニコニコと笑って、人の嫌がる役割や面倒事を引き受ける。
僕には到底真似できやしない。
「……わかったよ。で、これ……文例練り上げて、チェックされるんだろ?いつまでにやればいいの?」
「一週間以内ですって。あの、私も協力するから何か困ったら相談してね」
「……はいはい。姉さんも大変だね」
姉は僕の部屋から出て行った。
僕が今度入学することになった星奏学院は、その昔僕の曽祖父が創設した、音楽科と普通科の並立する学校だ。
高等部と大学部、それから大学院までが建ち並ぶ広大なキャンパスは、緑豊かな立地を活かし、西洋建築の重厚さと意匠を凝らしたモダンな建物が特徴だ。
そこの音楽科を受けて、見事合格を果たした訳だが。
まさか自分が入試で首席を獲るなどとは思ってもいなかった。
姉は音楽科に在学中で、今度三年生になる。
叔父が校長をしているのだが、その姉に頼み込んで、僕に新入生代表の文章を読み上げさせるように仕向けるとは。
僕に直接依頼が来たなら……僕は面倒がってその場で即座に断り、入試得点二位の生徒に、この有り難くも栄誉ある使命を譲渡すると宣言しただろう。
精一杯の皮肉をこめて。
世襲と、親族経営の悪しき部分を凝集したようなものだ。
僕が口答で断ったところで断りきれず、身内の情を訴えかけてきて、最終的には引き受けざるを得ないようにされるに違いない。
――待てよ。
僕は一つの疑念が思い浮かんだ。
実は僕が成績トップなのではなくて、甥の僕に新入生代表を押し付けたい校長、つまりは僕の叔父の策略なのではないかと思ったのだ。
入試の点数は、通常は非公開のはずだ。
だが、僕にはそれを知る権利がある。
僕の入試の答案を見せてくれと叔父に要請し、拒否されたら嘘と思っていいだろう。
僕はあれこれと草案を練りながら、早速叔父への面会の約束を取り付けた。
僕が電話で文例ができたと言ったら、かなり驚いていて、明日の午後に星奏学院の高等部に来るようにとのお達しだ。
どうせ、僕が勝手なことを言い出さないように牽制しようというつもりに違いない。
一筋縄ではいかない狸親爺。
叔父に対し、身内ながらこんな印象を持つことしかできない。
僕は文例集から適当に抜粋した文章を継ぎ接ぎにして、なんとかそれらしく体裁を整えた。
文章を読んだり書いたりする作業は得意中の得意だ。
こんなの一時間もあればすぐにできる。
だが、叔父のやり方が気に食わない。
僕に直接願い出るのではなくて、姉をお遣い係に使役したことが腹立たしく思えてならない。
このまま、叔父の思惑に唯々諾々として素直に乗ってやりたくない。
さて、どうしてやったものだろうか……?
(続く。暁彦君の日記スタイルです。いずれR18の高一暁彦→香穂子とリンクさせます!(`・ω・´))